豊家の滅亡へつながる壮絶な戦い
大坂夏の陣おおさかなつのじん
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西暦 1615年
和暦 慶長20年4月
略図
場所  摂津国 大坂城
写真
大坂城の再建天守
概要 ●惣堀埋め立て
1614年の大坂冬の陣後の和議成立条件により、大坂城の二の丸、三の丸と次々に破壊されたが、徳川方は条件にはなかった全ての堀を埋める工事を進めた。(本多正信の策略とされる)

大坂方はもちろん抗議を行うが、工事は中止されず、徳川方はのらりくらりと要領の得ない回答をするのみで、結局本丸だけが残る裸城となった。

●戦の再開
もう後がない大坂方が浪人を再び城内に入れるなど、軍備を増強したことを口実として、徳川方は再び大坂へ兵を進めることに。

大坂方は、今度こそ籠城戦は無理であることから、城外に討って出る作戦を展開。

4月26日
暗峠(くらがりとうげ)を越えた大野治房が、筒井正次の大和郡山城を攻め落とす。

4月28日
2万の大軍が大坂城から出陣し、小出吉英の岸和田城を攻め、さらには東軍の拠点と化していた堺の町を焼く。

●家康最後の出陣
5月5日
徳川家康が京都の二条城から出陣。このとき家康は兵たちに相手弱しと印象付けるために、兵糧は3日間分だけ持参するよう命じる。

徳川秀忠大坂城から出陣。

家康は本隊を2隊に分けていた。
河内方面から大坂へ向かうのは藤堂高虎井伊直政榊原康政酒井忠次などの諸隊。
大和方面から大坂へ向かうのは水野勝成、本多忠政、水野忠明、伊達政宗松平忠輝などの諸隊。

●道明寺の戦
5月6日
大和方面から進撃してくる徳川軍を迎え討つべく、大坂城五人衆の内、真田幸村、毛利勝永、後藤又兵衛が示し合わせた行動を開始するが、真田隊、毛利隊が濃霧のために行軍が思うようにいかず、後藤又兵衛隊約3千が伊達政宗、水野勝成隊、合計2万3千と遭遇、戦闘となった。寡兵の後藤又兵衛は小松山に登り抗戦するがやはり多勢に無勢、討ち死にを遂げた。(道明寺の戦)

その後真田幸村らが駆けつけ、伊達政宗、水野勝成隊を押し返した。

●八尾・若江の戦
河内国方面から進撃してきた藤堂高虎軍と長宗我部盛親軍が八尾で激突、藤堂隊は序盤有力武将の多くを失う不利を展開したが、徐々に持ち返した。
また若江では木村重成隊と井伊直政隊が戦闘を行い、数に勝る木村重成隊であったが、打ち負かされ、大将の木村重成も討ち死にを遂げた。(八尾・若江の戦)

これにより豊臣方は大坂城へ退却した。

●天王寺・岡山の戦
5月7日
大坂城近郊に戦場が移り、徳川家康は主戦場になる天王寺口から、徳川秀忠は岡山口から大坂城を攻撃することになった。

豊臣方では、天王寺口に真田幸村、毛利勝永らを、岡山口には大野治長らを布陣させ、明石全登は遊軍として舟場で備えた。
真田幸村は、大坂冬の陣で家康が本陣を置いた天王寺の茶臼山に陣を張った。

豊臣秀頼も総大将として出陣しようとしたが、淀殿に諫められ城内に残った。

正午頃、徳川方の本多忠朝隊が毛利勝永隊に攻撃を仕掛け戦が始まり乱戦となったが、本多忠朝が討ち死に。

さらに毛利勝永は小笠原秀政隊と激突。小笠原秀政は重症を負いその夜死去する。

その後も毛利勝永隊の勢いを好機とみた真田幸村は、赤備え3千を率いて茶臼山を駆け下り松平忠直隊1万5千に突撃を行い蹴散らし、徳川家康の本陣近くまで切り込んだものの、混乱から立ち直った松平忠直隊に阻まれ力尽き討ち死に。

これを知った明石全登は、松平忠直に突撃するも多勢に無勢のため蹴散らされ、その後消息を絶つ。

一方岡山口では、一時大野治長隊が徳川秀忠隊に迫るほどの健闘をしたが、次第に不利となり城内へ退却。(天王寺・岡山の戦)

天王寺口の毛利勝永も大坂城への総退却を指示。

●大坂城炎上
夕方、退却する大坂方を追って徳川軍が大坂城内になだれこみ占拠。深夜味方の内応からて天守が炎上。

5月8日
豊臣秀頼に嫁いでいた千姫(家康の孫)から徳川家康に助命嘆願されるが叶わず、豊臣秀頼淀殿母子は隠れていた山里丸内の籾倉で自害。
豊臣秀頼の介錯は、毛利勝永が行った。
大野治長毛利勝永、速水守久、荻野道喜、真田幸昌(大介)、竹田永翁、大蔵卿局ら重臣も自害した。
考察 長い戦国時代の終わりを告げる大戦であった。

豊臣秀頼が城を出て戦わなかった理由のひとつとして、長宗我部盛親真田幸村が東軍に内通しているという情報を大野治長がつかんでいたことがある。
この情報は、治長の末弟で、幼少期から徳川家康に人質となっていた大野治純からもたらされたのだが、家康本多正信の謀略だった。