豊家存亡を賭けた巨城の籠城戦
大坂冬の陣おおさかふゆのじん
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西暦 1614年
和暦 慶長19年11月
略図
場所  摂津国 大坂城
 摂津国 真田丸(大坂城の外城)
写真
大坂城の再建天守
概要 方広寺鐘銘事件で開戦のきっかけを作った大御所徳川家康と、秀吉のあとを継いだ豊臣秀頼の第一回目の戦である。

●準備
大坂の豊臣方は、諸国の大名や浪人に味方するよう呼びかけていたが、参陣した大名は皆無で、集まってきたのは関ヶ原の戦で録を失った浪人や、幕府の禁教令を受けて行き場を失いつつあったキリシタンなど約5万人であった。
豊臣恩顧の大名たちは必ず味方してくれると考えていた淀殿や、大野治長ら豊臣家の重臣たちの落胆は、いかばかりであったろうか。

参陣した大物浪人は、長宗我部盛親後藤又兵衛毛利勝永真田幸村明石全登(以上大坂城五人衆)、仙石秀範、大谷吉治、塙直之など。

●出陣
徳川方は、各国の大名に参陣を指示。
徳川家康は10月11日に駿府から出陣、23日に京都の二条城に到着。
将軍徳川秀忠も10万の大軍で江戸を出立した。

●籠城策
豊臣方は大坂城で軍議を開くが、真田幸村後藤又兵衛は後詰めに期待ができない籠城は無謀であると説き、近江国の瀬田川まで討って出る作戦を主張したが、大坂城は難攻不落であるという理由から容れられず、小幡景憲の主張する籠城策がとられることになった。
小幡景憲(勘兵衛)は甲斐武田家の浪人だが、実は徳川方の間者で、わざと不利な籠城策を進言したと言われている。

真田幸村大坂城の弱点玉造口に真田丸(出城)を築く。

●開戦
11月18日
徳川家康徳川秀忠は、大坂城南南西1里半の小山、茶臼山で合流したのち、20万の大軍で城を包囲した。

●木津川口の戦
11月19日
徳川方の蜂須賀至鎮が40隻の水軍で木津川口砦を攻略、これが戦の始まりであった。(木津川口の戦)

●野田の戦
11月25日
城の西にある野田で、徳川方の向井忠勝率いる水軍が、豊臣水軍に勝利。(野田の戦)

●鴫田の戦
11月26日
大坂城北東の鴫野堤に3重の柵をめぐらせた豊臣勢に対し、上杉景勝らが攻撃を行い占拠。(鴫野の戦)

●今福の戦
また佐竹義宣は、4重の柵をめぐらせた今福砦を攻撃し勝利。(今福の戦)

●福島の戦
城の西にある福島で、徳川方の九鬼守隆率いる水軍が、大野道犬率いる豊臣水軍に勝利。(福島の戦)
これにより豊臣水軍は壊滅、制海権は完全に徳川方に握られた。

11月29日
城の西南の博労淵砦を、石川忠総、蜂須賀至鎮が攻撃。守将の薄田兼相が不在だったこともあり徳川方の一方的な勝利に終わる。

これら一連の戦に敗北した兵たちは、大坂城へ次々と入城。
その後、天下の巨城に対して決定的な攻撃策のない徳川方と、籠城を決め込んだ豊臣方のにらみ合いによる膠着状態が続いた。

●真田丸の戦
12月14日
真田幸村の築いた真田丸(大坂城の南)からの再三の挑発にのってしまった前田利光(利常)が、真田幸村の策略にかかり大敗。

それをみた徳川方の井伊直孝と松平忠直も、八丁目口や谷町口で命令を無視した軍事行動を起こすが、木村重成や真田幸村に散々に討ち負かされ、最終的に2千もの死傷者を出してしまう。(真田丸の戦)

このような膠着状態の中、厳冬の接近と兵糧不足が懸念される徳川方は、止む無く和睦を提案することを決定した。

●和睦
12月16日
徳川方が放った大筒が大坂城の天守に命中し侍女が数名死亡すると、その恐怖から淀殿が和睦を受け入れるよう主張。

12月17日
塙直之が本町橋の徳川方へ夜襲を仕掛け成功。

12月18日
京極忠高の陣内で初めての和睦交渉。
徳川方からは、本多正純阿茶局(家康側室)、豊臣方は常高院淀殿の妹)が立ち会う。

12月19日
大坂城は本丸を残して、二の丸、三の丸は破壊、総堀(外堀のこと)は埋める、大野治長織田有楽斎(長益)が息子を人質に出す、などの条件で和議が成立。

翌年、大坂夏の陣が起こる。
考察 優勢であった豊臣方にとっては不利な条件での和睦となった。