秀頼の最後の側近で和平派
大野治長おおの はるなが
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誕生 1569年(永禄12年)
生誕地 尾張国大野村(異説あり)
大野定長
大蔵卿局淀殿の乳母)
幼名  
大野修理亮治長
官名 従五位下修理亮
近親など 弟:大野治房、大野道犬(治胤)、大野治純
ゆかりの地  摂津国 大坂城
略歴
●尾張
1569年 1歳 尾張国大野村の武士、大野定長の子として生まれる
●淀殿の乳兄弟
その後、母が豊臣秀吉の側室、淀殿の乳母だったことから、秀吉の馬廻衆となる
1598年 30歳 豊臣秀吉の死後は、後継の豊臣秀頼の側近に
1599年 31歳 徳川家康暗殺疑惑の首謀者と疑われ、下野国結城に流罪
1600年 32歳 関ヶ原の戦では東軍につき、徳川家康に許される
戦後、徳川家康から豊臣家への使者を任され、そのまま大坂城に残り、豊臣秀頼の側近に復帰
●大坂の陣
1614年 46歳 方広寺鐘銘事件大坂城を退城した家老の片桐且元に代わり、豊臣家の最高指導者に
大坂冬の陣では和平を主張
1615年 47歳 大坂夏の陣でも和平を主張し、家康の孫で秀頼の正室千姫を退城させる代わりに豊臣秀頼淀殿の助命を得ようと工作するが成らず
豊臣秀頼とともに、山里丸内の籾倉で自害
死没 1615年6月4日(慶長20年5月8日) (享年47歳)
レクイエム 淀殿の乳兄弟。そのためか、豊臣秀頼は治長と淀殿の密通によって生まれたという説もある。

茶の湯では古田織部を師とした。