上杉氏に呼応したため改易された仙北大将
小野寺義道おのでら よしみち
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誕生 1566年8月19日(永禄9年8月5日)
生誕地 出羽国羽後
小野寺景道
大宝寺義増の娘
孫十郎、弥七郎、綱元
官名 従五位下、遠江守
近親など 兄:小野寺光道
弟:小野寺康道
子:小野寺保道など
ゆかりの地  出羽国羽後 横手城
略歴 ●小野寺家の二男
1566年 (1歳)
出羽国羽後仙北の支配者で横手城主、小野寺景道の二男として生まれる。

その後、兄、小野寺光道が戦死。

1578年頃 (13歳)
この頃、父、小野寺景道より家督を譲られる。

●危機
1581年 (16歳)
山形の最上義光に対抗するため、庄内の大宝寺義氏と同盟。

支配下にあった真室の鮭延城主、鮭延秀綱が山形の最上義光の侵攻を受け降伏、敵対関係に。

由利郡への侵攻のため、由利十二頭から人質をとるが、その一部が自害したことから一揆が勃発。

その後、出羽国羽前村上の楯岡満茂の謀略を受け、家臣を誅殺。

1582年 (17歳)
最上義光や由利十二頭からの攻勢に加え、秋田の安東愛季の煽動、さらには角館の戸沢盛安からの攻勢などにより、雄勝郡、平群郡の大部分を失う。

父、小野寺景道が上洛し、織田信長に謁見。
(救援依頼のためと推定)

1585年 (20歳)
同盟者の大宝寺義氏が、最上義光の侵攻を受けると、これに乗じて最上領へ侵攻。

1586年 (21歳)
最上義光戸沢盛安らが領内へ侵攻し始める。

1587年 (21歳)
戸沢盛安と和睦。


●仙北一揆
1590年 (24歳)
豊臣秀吉小田原城攻めに参陣。
これにより本領5万5千石を安堵される。

奥州仕置の後、検地に反発した領民が一揆を起こし、上杉景勝がこれを鎮圧するが、一揆を起こした罪を咎められ、所領の3分の1を失う。(仙北一揆)

1591年 (25歳)
九戸政実の乱の平定戦に従軍し貢献。

1592年 (26歳)
文禄の役では、名護屋に参陣。

1595年 (29歳)
最上義光謀略を受け、家臣の八柏道為を誅殺。

最上義光の命を受けた楯岡満茂の侵攻を受け、湯沢城や岩崎城を失う。

●改易
1600年 (34歳)
関ヶ原の戦では、初め徳川家康の東軍につくが、宿敵最上義光を攻めるために上杉景勝につき、最上家に奪われていた湯沢城攻めなどを行ったことから、戦後改易され、石見国津和野へ追放処分に。

1646年 (79歳)
死没。
死没 1646年1月8日(正保2年11月22日) (享年79歳)
レクイエム 長年の恨みを晴らそうとしたことが、皮肉にもお家滅亡につながってしまったが、元は仙北大将とまで呼ばれた羽後の最有力者であった。