信長台頭のきっかけになった、あざやかな急襲戦
桶狭間の戦おけはざまのたたかい
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西暦 1560年
和暦 永禄3年5月
写真
桶狭間の戦場
関連する場所  尾張国 沓掛城(義元が入る)
 尾張国 鳴海城(尾張における今川勢の最前線)
 尾張国 丹下砦(信長が最初に入る)
 尾張国 大高城(松平元康が兵糧を入れる)
 尾張国 丸根砦(松平元康が攻略)
 尾張国 鷲津砦(朝比奈泰朝が攻略)
 尾張国 善照寺砦(信長が入るが、ここで丸根・鷲津両砦陥落を知る)
 尾張国 中島砦(信長は入城せず素通り)
 尾張国 桶狭間の戦場(新説による古戦場跡)
略図
概要 駿河国遠江国三河国を支配下におく大大名今川義元は、永禄3年(1560年)5月12日、天下へ号令するために2万2千の大軍で駿河国駿府から出陣、上洛戦を開始した。

●信長
上洛途上には、敵対関係にあった織田信長のいる尾張国がある。

信長は、隣接する大国美濃国斎藤道三と政略結婚により敵対関係を脱し、さらには織田一族の敵対勢力を滅ぼし尾張国内を平定し、有力大名への名乗りを上げていた。

●今川方の三城
織田家と今川家の抗争の結果、その頃までに、尾張国鳴海城大高城沓掛城の三城が今川方に落とされており、織田家はかなり劣勢であった。

尾張国における今川方の最前線は鳴海城で、ここは織田から今川に寝返った山口教継の居城であったが、山口教継の死後は岡部元信が入城していた。

また大高城鳴海城の南西に位置し、当時の伊勢湾は、現在よりも深く陸地に食い込んでおり、鳴海城大高城も海に面した場所に築かれていた。

沓掛城鳴海城の東、約6qに位置する平城で、三河国に最も近い場所にあった。

今川勢の尾張国への侵攻を許してはいたものの、織田信長鳴海城への向城として善照寺砦、丹下砦、中嶋砦を、また大高城への向城として丸根砦、鷲津砦を築くなどの準備は怠らなかった。

しかしながら、この時点で信長が動員できる兵数は約4000そこそこで、どう考えても2万を超える今川勢に対しての勝算はなく、織田家滅亡の危機が迫っていた。

●義元進軍
今川義元は5月17日に沓掛城に入ると、翌5月18日、先鋒の松平元康(徳川家康)に命じ、大高城へ兵糧を運び込ませた。

翌5月19日の未明、大高城から出陣した松平元康(徳川家康)は、城のすぐ東に築かれていた織田方の丸根砦を攻め、また朝比奈泰朝らは丸根砦の北に位置する鷲津砦へ攻撃を開始、午前中には両砦が攻略された。

一方織田信長もこの日の早朝、居城の清洲城から出陣、熱田神宮に詣で軍勢を整え丹下砦に入り、その後善照寺砦に到着。兵数は2千ほどであった。午前10時頃、丸根砦、鷲津砦の陥落を知る。

今川軍の本体2万を率いて早朝に進軍を再開していた今川義元が、丸根、鷲津、両砦攻略の勝報を受けたのは、沓掛城から大高城へ向かう途中であった。

●桶狭間
正午頃、2千の軍勢で善照寺砦から出陣し、折から大雨の中、南方の中島砦へ向かった信長だったが、そのまま砦には入らず今川本体へ向かって進軍を続けた。

雨がやんだ頃、今川本体の先鋒を目前に捉えた信長はこれを急襲し蹴散らす。

その後今川義元の本陣5千が桶狭間山で小休止をしているとの情報を簗田政綱から受け、さらにこれも急襲、今川勢は不意をつかれ混乱、乱戦となった。

旗本の服部小平太が本陣にいた義元に切りかかり攻防を続けていたところを、毛利新助がこれを討ち取った。

大将を失った今川勢は、算を乱して駿河国へ引き返した。

今川家はその後今川氏真が継ぐが、その凡庸さから家は衰退してゆく。
その他 今川義元は上洛を狙ったのではなく、尾張国に築いていた拠点を信長方の砦に囲まれ連絡がとりにくくなっていた状態を脱却するために出陣しただけ、という説もある。