22万人の大群での北条攻撃
小田原城攻めおだわらじょうぜめ
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西暦 1590年
和暦 天正18年3月〜
略図
場所  相模国 小田原城
 相模国 石垣山一夜城
 相模国 玉縄城
 相模国 津久井城
 駿河国 足柄城
 伊豆国 山中城
 伊豆国 韮山城
 伊豆国 下田城
 上野国 松井田城
 上野国 金山城
 上野国 厩橋城(前橋城)
 上野国 箕輪城
 上野国 館林城
 武蔵国 江戸城
 武蔵国 岩付城
 武蔵国 河越城
 武蔵国 鉢形城
 武蔵国 八王子城
 武蔵国 忍城
写真
小田原城 再建天守

天守から望む石垣山一夜城方面
概要 ●大領主、後北条家
九州の島津家を臣従させた豊臣秀吉の次の目標は、関東にて大勢力を誇る北条家を帰服させることであった。

北条家は、北条早雲伊豆国を拠点に相模国を平定したのをきっかけに、関東公方の足利家や関東管領の上杉家を攻めて追い、この頃までに伊豆国相模国武蔵国上野国下野国下総国上総国北部、合計6ヶ国と半国を支配するだけでなく、常陸国安房国甲斐国の一部にも勢力を拡大させていた。

●小田原評定
北条家では、豊臣秀吉の命に従いその臣下につくかどうかの話合いを持つが、なかなか決着を見ず、それが「小田原評定」(会議ばかり続けるものの結論がなかなか出ないこと)の語源ともなったほどであった。

抗戦派の主張としては、北条家は北条早雲に始まる関東の覇者であり、農民出の秀吉に屈服する必要はない、というものであった。すなわち関白豊臣秀吉の実力をみくびっていたのである。
同盟を結んでいた徳川家康伊達政宗が、味方についてくれるという公算もあったに違いない。

徹底抗戦を主張したのは、先代当主北条氏政やその弟北条氏照らであり、秀吉に従うべきと主張した穏健派は、その弟である北条氏規らであった。

北条氏規は、再三に渡る秀吉からの上洛命令を受けていた前年の夏、戦備の時間をかせぐために上洛し、聚楽第で豊臣秀吉に従う多くの公家や諸大名に謁見したのだが、その折に秀吉の実力を充分に知っていた。とても北条家が相手にできるわけはないと確信していたのである。

●開戦へ
抗戦、臣従、それが決まらないまま、開戦のきっかけが起こってしまう。
上野国沼田をめぐる真田家との領土争いの果てに、北条家の家臣である猪俣範直が、真田家の名胡桃城を奪ってしまったのである。
これは明らかに秀吉の惣無事令に違反した行いであり、当然のごとく豊臣秀吉は激怒、開戦を決めたとされている。

ただし、この名胡桃城奪取については、北条征伐の大義名分を得るために秀吉が裏工作を行って起こさせた、という説もある。

北条家では、小田原城がこれまで上杉謙信武田信玄の大軍にも落とせなかったほどの堅城であったことを頼みに、秀吉に対しての抗戦を篭城主体とすることを決断し、小田原城や53もの支城の改修や兵糧の準備を行った。

北条討伐のために、豊臣秀吉が出兵を命じた主な大名は、徳川家康織田信雄豊臣秀次細川忠興池田輝政小早川隆景宇喜多秀家などで、諸勢は東海道ルート、中山道ルート、そして海路ルートで小田原に向かった。

●前線3支城
秀吉は3月27日に駿河国沼津に着陣すると、早速北条方の西の前線基地である3支城(山中城足柄城韮山城)の攻略を開始した。

●山中城
まずは3月29日、箱根山を後ろに控えた山中城を、秀吉の甥である豊臣秀次を大将に、中村一氏堀尾吉晴山内一豊一柳直末らが攻撃した。

緒戦は城主北条氏勝の抵抗が激しく、豊臣勢は一柳直末が討ち死にするなどの苦戦を強いられたものの、秀吉が命じた総攻撃が始まると、城将、間宮康俊、松田康長らが討ちとられ、その日のうちに山中城は落城となった。
城主、北条氏勝は城を脱出した。

●足柄城
足柄城には下野国唐沢山城主、北条氏忠が入城していたが、山中城落城を受けて城から退却、そのあと依田大膳亮が城代を任されたが、徳川家康家臣の井伊直政に攻められ4月1日に落城した。

●韮山城
北条氏規が城主の韮山城攻略にあたったのは、織田信雄蒲生氏郷福島正則ら4万だったが、城兵4千は10倍の相手によく守り、北条氏規と誼のあった徳川家康の説得による開城までの3ヶ月を耐え抜いた。

●包囲網と一夜城
豊臣秀吉韮山城の包囲を解けないまま東海道を伝い箱根を越え、箱根湯本の早雲寺に本陣を進めるとともに、各将は陸海双方から小田原城を包囲した。

秀吉は、惣構えの外側に広がる外堀に囲まれた堅固な小田原城を見てこの戦は長期化すると考え、小田原城西方の城を見下ろせる石垣山に付け城を築き始めた。(石垣山一夜城

●下田城
海路ルートについては、下田城が築かれ豊臣水軍を迎え撃つ拠点として清水康英が6百の城兵とともに入っていたが、脇坂安治長宗我部元親安国寺恵瓊らの豊臣水軍1万に攻められ50日間の籠城ののち4月23日に開城となった。

●上野国の諸支城
一方中山道ルートであるが、信濃国との境界にあった上野国松井田城大道寺政繁が城主を勤めていたが、上杉景勝前田利家ら北国勢、真田昌幸らの信濃勢の到来に、約1ヶ月の籠城の末、4月20日に降伏、その後大道寺政繁は、武蔵松山城鉢形城八王子城などの攻略に加担させられた。

厩橋城(前橋城)浅野長政に4月19日に攻略された。

箕輪城上杉景勝前田利家により4月24日に攻略された。

金山城前田利家により5月2日に攻略された。

河越城前田利家により5月上旬に攻略された。

館林城石田三成大谷吉継らに攻略された。

●相模国・武蔵国の諸支城
豊臣秀吉は、小田原包囲を行っていた諸隊の一部を割いて武蔵国方面へ向かわせ、中山道ルートを進撃してくる北国勢、信濃勢と合流の上、北条方の各支城を攻略するよう命じた。

北条氏勝が城主の相模国玉縄城は、徳川家康が4月21日に攻略した。

武蔵国江戸城は、城代の遠山景政の弟、川村秀重が守っていたが、浅野長政前田利家、徳川家臣の戸田忠次らに攻められ4月27日開城となった。

岩付城は、城主北条氏房の家老、伊達房実が守っていたが、浅野長政らに5月22日に攻略された。

鉢形城は、城主北条氏邦が、小田原での評定で出撃論を主張したが受け入れられず篭城策と決まったあと、3千の兵とともに篭っていたが、前田利家上杉景勝本多忠勝らの攻撃に1ヶ月耐え抜いたあと、6月14日に開城した。

八王子城は、城主北条氏照が小田原城に入城していたために、家臣たちがわずか千名で篭っていたが、前田利家上杉景勝真田昌幸らに攻められ、6月23日に開城となった。

相模国津久井城は、徳川家康の家臣、本多忠勝平岩親吉に攻められ、6月25日に開城となった。

●難攻忍城
武蔵国忍城は、石田三成を大将に、長束正家佐竹義宣真田昌幸宇都宮国綱結城晴朝など2万3千が攻撃したが、城主、成田氏長の正室や従弟成田長親を中心とした成田勢3千は、湿地帯という立地も有効に利用しよく守った。

石田三成は、城の南部に総長28qの堤防を築き(石田堤)、利根川の水を引き込み一帯を湖水とする水攻めを行ったものの、築いた堤防が敵方に切られ、逆に味方の陣が水没するなど失敗に終わった。
忍城は結局小田原城開城後まで落城せず、最後まで持ちこたえた。

●下総国の諸支城
江戸城を落としたあと、浅野長政、内藤家長は、下総国方面へ向かい、5月5日小金城、5月18日臼井城、5月18日本佐倉城と、各城を労せず攻略した。

●小田原の情勢
このような情勢の中、6月に入ると、小田原城内の北条勢の中に豊臣方への内応者が出始めた。秀吉の調略が成功し始めたのである。
支城を次々と攻略され、小田原城が裸城同然となったた現状では、それも致し方ないとも思える。

まずは、忍城主で小田原城に入っていた成田氏長が、連歌師里村紹巴を通じ秀吉に内応しようとしたが、事前に北条方の知るところとなり、氏長は捕えられ幽閉された。

6月16日、松田憲秀と、その子、笠原政晴の一味が豊臣勢を城内に引き入れようと計画したが、これも事前に北条方に通報され処断された。(異説あり)

●開城
前出の6月14日の鉢形城開城、6月23日の八王子城開城など益々悪化する情勢に加え、6月26日には秀吉の石垣山一夜城が完成、その底知れない秀吉の実力を目の当たりにした北条方は、とうとう7月5日に降伏の上開城した。

●処分
氏直の父北条氏政と、弟の北条氏照八王子城主)は7月11日に切腹した。

当主である北条氏直(五代目の当主)は徳川家康の婿ということで、高野山への追放となった。

また、早々に内応してきた松井田城主大道寺政繁と、内応の手引きをしようとした松田憲秀も、主君への不忠という罪により切腹を命じられた。

ちなみに、小田原駅そばの繁華街の一画に、北条氏政北条氏照の墓所がある。