10万の大軍による1ヶ月の包囲戦
小田原城攻め
(上杉謙信)

おだわらじょうぜめ(うえすぎけんしん)
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西暦 1561年
和暦 永禄4年3月〜
写真
小田原城 再建天守
関連する場所  上野国 厩橋城(前橋城)
 武蔵国 武蔵松山城
 下総国 古河城(古河御所)
 相模国 小田原城
 相模国 鶴岡八幡宮
略図
概要 ●関東管領上杉憲政
1552年に相模国北条氏康に追われた関東管領上杉憲政は、越後国長尾景虎(上杉謙信)の元に逃れ、景虎を養子にしていた。

上杉憲政の望みは、長尾景虎(上杉謙信)の援助の元、北条家を撃退させ、名実ともに関東管領たることであったが、上田長尾家の長尾房景、長尾政景父子を降伏させ、やっと国内を平定したばかりの長尾景虎(上杉謙信)にとって、関東への出兵はまだ難しかった。

●川中島
さらに長尾景虎(上杉謙信)にとって、生涯を左右するような強敵が現れる。
甲斐国武田晴信(信玄)である。

武田晴信(信玄)は、信濃国北部を侵略し始めたため、当地の諸豪が長尾景虎(上杉謙信)を頼ってきた。そのため長尾家と武田家は信濃国川中島を中心に、5度に渡り、対峙・戦闘を行うことになる。(川中島の戦

●上杉の七免許
強敵武田晴信(信玄)との対立は続いていたが、長尾景虎(上杉謙信)は関東進出を決めた。そのきっかけは、1559年の上洛(2度目)の際、将軍足利義輝に謁見し、管領職同等の権限(上杉の七免許)を受けたことである。幕府に敵対するものは逆賊である。義に厚い景虎が関東管領を追いやった北条家を見逃しておく道理はなかった。

●関東進出
1560年初夏、長尾景虎(上杉謙信)上野国に進出し、北条家が長尾賢忠から奪っていた厩橋城(前橋城)を攻め奪回し、長尾賢忠を再び城主に据えた。

さらに翌1561年には武蔵国へ進出し、北条家へ寝返っていた上田朝直武蔵松山城を攻略し、太田資正を城代とした。

そして景虎は、以前関東管領家に臣従していた長野業正小山秀綱小田氏治、那須資胤、佐竹義重太田資正、三田綱秀、成田長泰らを従えさらに関東平野を南下し、3月、総勢10万の大軍で小田原城を包囲した。

しかし、2年前に北条家の当主となっていた北条氏政は1ヶ月間の籠城を決め込み、難攻不落の小田原城は、ついに連合軍を寄せ付けなかった。

●関東管領相続
長尾景虎(上杉謙信)は、攻城をあきらめ包囲を解くと鎌倉へ向かい、閏3月、鶴岡八幡宮において関東管領職並びに山内上杉家の家督を相続した。
また、養父上杉憲政から一字をいただき、名を上杉政虎と改めた。

鶴岡八幡宮で諸豪の挨拶を受ける際、下馬しなかった忍城主、成田長泰を政虎(謙信)が無礼者扱いし、扇子で頭を討ち据えるという事件が起こった。
これが少なからず影響し、その後関東諸豪の人心が離れるきっかけになったといわれる。

●古河御所奪還
しかし長尾景虎(上杉謙信)はこの遠征で、やはり北条家に奪われていた下総国古河御所を奪還し、足利藤氏を古河公方に据えることにも成功しており、関東の諸豪に対して、その実力を十分に見せつけることに成功した。