伊勢神戸家を継いだ信長の三男
織田信孝おだ のぶたか
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誕生 1558年(永禄元年)
生誕地 尾張国
織田信長(実父)、神戸具盛(養父)
坂氏
幼名 三七丸
神戸信孝、織田信孝
官名 侍従
近親など 正妻:神戸具盛の娘
兄:織田信忠織田信雄
ゆかりの地  伊勢国 神戸城
 美濃国 岐阜城
略歴 ●信長の三男
1558年 (1歳)
織田信長の三男として生まれる。
3月7日生まれのため、信長から三七丸と名づけられる。(異説あり)

●神戸家の養子
1568年 (11歳)
信長の北伊勢攻略に伴い、有力豪族であった伊勢国神戸城主の神戸具盛の養子に送り込まれる。

●神戸家相続
1570年 (13歳)
織田信長が、信孝を冷遇した理由で神戸具盛を隠居させ、神戸家の家督を受け神戸城主に。

1574年 (17歳)
伊勢長島の一向一揆攻めに参陣。

1577年 (20歳)
紀伊国雑賀攻めに参陣。

1578年 (21歳)
荒木村重攻めに参陣。

1580年 (23歳)
神戸城を大改修。

●父の死
1582年 (25歳)
四国攻めで司令官に指名され、その準備中、明智光秀の謀反(本能寺の変)により、織田信長が自害。

その際、一緒に四国攻めの準備中だった津田信澄明智光秀の娘婿)を討ち取る。

●山崎の戦
羽柴(豊臣)秀吉の要請で、山崎の戦で名目上の総大将となり、戦に勝利。

織田家の後継者を決める清洲会議で、甥の三法師(織田秀信)が信長の後継に決定し、その後見となる。

●岐阜城主
織田信忠の遺領美濃国(54万石)を拝領し、岐阜城を居城に。

織田姓を名乗る。

信長の後継者になれなかったことから羽柴(豊臣)秀吉に不満を持ち始め、秀吉と敵対する柴田勝家滝川一益と結び挙兵するが、冬季だったため柴田勝家の援軍が望めず、秀吉に攻められ降伏。三法師(織田秀信)を引き渡すことに。

●柴田勝家の味方
1583年 (26歳)
賤ヶ岳の戦でも柴田勝家方につき挙兵するが、兄の織田信雄に岐阜城を攻められ降伏。

その後秀吉の命で尾張国知多郡野間に護送され、自害。

辞世は「昔より主を討つ身の野間なればむくいを待てや羽柴筑前」
(昔、同じ野間で源義朝が家臣に討たれたことをかけている)
死没 1583年6月19日(天正11年5月2日)(4月29日説もあり) (享年26歳)
レクイエム 山崎の戦で総大将に担ぎ上げられたにも関わらず、清洲会議で無視されたことから秀吉に敵対したわけだが、秀吉にしてみれば将来邪魔になることがわかっていた信孝に反抗させることで、討ち取る大義名分を作るための罠だった。

単純に物事を考える人物を翻弄することで容易に実現してしまった秀吉。謀略の見本である。

織田家の存続を考えるのであれば、信孝はもっと深慮するべきであった。