北畠家の後を継いだ信長の二男
織田信雄おだ のぶかつ
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
画像
誕生 1558年(永禄元年)
生誕地 尾張国清洲
実父:織田信長
養父:北畠具教
生駒吉乃(側室・生駒八右衛門の娘)
幼名 茶筅丸
三介、北畠具豊、北畠信意、北畠信勝、北畠信雄、織田信雄、常真(入道名)
官名 侍従、左近衛権中将、大納言、内大臣
近親など 兄:織田信忠
弟:織田信孝など
妹:徳姫(五徳)など
ゆかりの地  伊勢国 大河内城
 伊勢国 田丸城
 伊勢国 松ヶ島城
 伊賀国 丸山城
GOOGLE MAP 伊勢国 
 尾張国 清洲城
 上野国 楽山園(小幡城
略歴 1558年 (1歳)
織田信長の次男として生まれる。
茶筅が結えそうな髪型をしていたことから、信長に茶筅丸と名づけられる。

1566年 (9歳)
母、生駒吉乃が病没。

●北畠の養子
1570年 (13歳)
信長の伊勢国攻め(大河内城の戦)の際の和睦の条件で、国司であった北畠具教の養嗣子に送り込まれ、大河内城に入る。

1572年 (15歳)
元服し、北畠具豊と名乗る。

1574年 (17歳)
第三次伊勢長島攻めに水軍を率いて参陣。

1575年 (18歳)
義父、北畠具教から家督を譲り受ける。

北畠信意と改名。

田丸城に移り、大改修を行う。

1576年 (19歳)
北畠具教やその一族を殺して、北畠家をのっとる。

1578年 (21歳)
伊賀国攻めの拠点として丸山城を築城。

●伊勢攻め失敗
1579年 (22歳)
独断で伊賀国攻めを行うが大敗し、信長の怒りをかう。(第一次天正伊賀の乱

1580年 (23歳)
田丸城が消失したため松ヶ島城を居城に。

1581年 (24歳)
織田信長伊賀国を平定し、伊賀国4郡の内3郡(阿加、名張、阿拝)を拝領。
(山田郡は織田信包が拝領)
第二次天正伊賀の乱

●父の死
1582年 (25歳)
明智光秀の謀反(本能寺の変)により、織田信長が自害。

この後、山崎の戦で信長の仇を討った羽柴(豊臣)秀吉が織田家での主導権を握り、天下統一事業を引き継ぐ。

●100万石
織田家の後継者を決める清洲会議で、兄の遺領尾張国を拝領し伊勢国南部、伊賀国と合わせて100万石の大領主に。

このとき信長の後継者となったのは幼い三法師(織田秀信)で、弟の神戸(織田)信孝がその後見に。

清洲城を居城に。

織田に復姓し、織田信雄と名乗る。

●秀吉への接近
1583年 (26歳)
秀吉と柴田勝家賤ヶ岳の戦では秀吉方につき、以前から仲の悪かった弟の織田信孝岐阜城を攻め自害させる。

伊勢長島城を居城に。

その後、織田家での発言権を強める秀吉と対立。

●三家老手討ち
1584年 (27歳)
秀吉の計略にはまり、自らの三家老(津川義冬・岡田重孝・浅井長時)を手討ちにしてしまう。これが秀吉の信雄攻めの口実となるが、信雄は徳川家康の援軍を要請、小牧・長久手の戦となる。

長期戦になり決着がつかず、家老の滝川雄利を派遣し秀吉と単独で和睦する。
家康は戦を続ける理由をなくし、これも秀吉と和睦。

1585年 (28歳)
越中国佐々成政攻めに従軍。

1586年 (29歳)
天正大地震により、伊勢長島城が全壊。

清洲城を居城に。

1587年 (30歳)
九州攻めに従軍。

●移封命令拒否
1590年 (33歳)
小田原城攻めに参陣。韮山城攻めを行うが苦戦。

戦後羽柴(豊臣)秀吉からの、徳川家康の旧領三河国遠江国駿河国への移封命令を拒否したため、領地を没収され、常陸国の佐竹家預かりとなり剃髪。常真と名乗る。

1592年 (35歳)
家康のとりなしで許され、秀吉の相伴衆となる。

1600年 (43歳)
関ヶ原の戦の際は東軍に与し、関西の情報を送っていたとされる。

1615年 (58歳)
大坂冬の陣で豊臣方につかなかったことから、戦後上野国大和国に合計5万石を拝領し、大名に復帰。

上野国に楽山園を築庭。(のちの小幡城

1630年 (73際)
死没。
死没 1630年6月10日(寛永7年4月30日) (享年73歳)
レクイエム 三家老の手討ちも、家康旧領への転封拒否による所領没収も、秀吉の計略にまんまと引っ掛かった結果である。

本能寺の変のあと、意味もなく安土城を焼いたという説もあるが、これが事実ならば、先の2件と合わせて信雄の「三大失策」と言える。