真田氏がどうしても手放さなかった城
沼田城ぬまたじょう
場所 群馬県沼田市西倉内町
旧国郡名 上野国 利根郡
別名 倉内城
種別 平山城
築城時期 1531年(享禄4年)
築城背景 白井長尾氏の家臣、沼田万鬼斎(顕泰)が、従来の居城幕岩城に代わって居城とすべく築城。
名城 私の400名城
主な城主 沼田万鬼斎(顕泰)、沼田憲泰、沼田朝憲、上杉氏、北条氏、真田昌幸真田信幸(信之)
天守 5重天守(非現存)
主な遺構 空堀、石垣
主な再建物 太鼓櫓
交通 JR吾妻線 沼田駅 徒歩約12分
駐車場 公園内に無料駐車場
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩5分

沼田城のシンボルの鐘楼

本丸の天守跡

西隅櫓台の石垣

古城から望む風景
構成 越後国との国境、三国峠にも近い、関東最北の平地部、利根川の東側の断崖上に築かれた平山城。

西側の断崖よりに古城があり、隣接して本丸、それから東へ向かって馬出曲輪、二の丸、三の丸、外曲輪などを配した梯郭式の縄張りで、本丸には9間×10間の5重天守が存在したという。
縄張図
または
現地
案内図
現状 沼田公園となっている。土塁や本丸西櫓台の石垣が残っている。
略歴
1531年 白井長尾氏の家臣、沼田万鬼斎(顕泰)が築城。
1552年 北条氏に追われた、関東管領の上杉憲政が一時逃げ込む。
1558年 城主となっていた沼田憲泰が北条氏に臣従。これにより北条孫次郎らが入城。
沼田憲泰、実父で隠居の沼田万鬼斎(顕泰)に殺害される。
沼田万鬼斎(顕泰)、北条方についていた長野氏に攻められ退城し、越後国長尾景虎(上杉謙信)を頼る。
1560年 越後国長尾景虎(上杉謙信)が越山してくると、北条孫次郎らが城から撤退し沼田万鬼斎(顕泰)が再び入城。
1560年 沼田万鬼斎(顕泰)が隠居し、子の沼田朝憲が城主に。
1569年 沼田家のお家騒動(沼田万鬼斎(顕泰)が側室の子、沼田景義を当主とすべく沼田朝憲を殺害した)により城を追われる。
これにより上杉氏の属城となり、河田長親が城代に。
1578年 御館の乱が起こると、北条氏邦が2万の軍勢で北上してきて城を奪取。
北条家家臣の藤田信吉や金子泰清が城代に。
武田勝頼真田昌幸らを派遣し、沼田城攻めを開始。
1580年 真田昌幸の家臣、矢沢綱頼が落城に成功。
北条氏の城代、藤田信吉、金子泰清らが真田家に臣従。
真田昌幸が入城。
1581年 沼田景義が城の奪還のため攻め寄せる。
金子泰清が謀略により沼田景義を殺害。
没落傾向にある武田家に代わり上野国西部一帯を治め始めた真田昌幸が、岩櫃城を居城に。
1582年 天目山の戦の際、真田昌幸武田勝頼岩櫃城に迎えるつもりだったが、叶わず、武田勝頼は自害。武田家滅亡。
本能寺の変後に起こった、天正壬午の乱の際の北条氏直徳川家康との和睦条件として、上野国は北条氏の切り取り次第と決定。
1583年 真田昌幸上田城を築城し居城に。
沼田城は、昌幸の長男で岩櫃城主の真田信幸(信之)に任せられる。
1585年 真田昌幸が沼田の割譲を拒み、上杉氏と結んで徳川に敵対し、第一次上田城の戦に発展。
1589年 豊臣秀吉の裁定により、沼田城を含む沼田の3分の2は北条家、名胡桃城を含む残りの3分の1は真田家に分割される。
その後、北条家の家臣で沼田城代の猪俣邦憲が、真田家の名胡桃城を奪取する事件が発生。(名胡桃事件)
これに激怒した豊臣秀吉が、北条攻め(小田原城攻め)を決意。
1590年 小田原城攻めにより、北条家は滅亡。
真田信幸(信之)が分家となり、沼田2万7千石を領し、沼田城を居城に。
1597年 天守が完成。
1600年 関ヶ原の戦では、真田信幸(信之)徳川家康の東軍につき、西軍についた父で本家の真田昌幸や弟の真田幸村と袂を分かつ。
戦後は沼田を安堵される。
(後略)