北近江に独立した浅井長政
野良田の戦のらだのたたかい
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西暦 1560年
和暦 永禄3年8月
関連する場所  近江国 野良田
 近江国 肥田城
 近江国 小谷城
 近江国 観音寺城
略図
概要 ●二代目、久政
近江国守護、京極家の家臣だった浅井亮政は、京極家のお家騒動に乗じて勢力を拡大させ、主家をしのぐ戦国大名となった。

その亮政の死後家督を相続したのは浅井久政で、久政は南近江の守護で観音寺城主の六角(義賢)承禎へ臣従し、その後ろ盾の元、北近江における支配体制を固めた。
浅井久政は、嫡男浅井賢政(長政)の嫁に六角(義賢)承禎の家臣の娘をもらい受けていた。

●久政への不満
こうした浅井久政の柔軟とも言える政策に反対していた浅井賢政(長政)は、同調する家臣たちとともにクーデターを決行、父の浅井久政を強引に隠居させてしまう。
(隠居は戦後のこととの異説あり)

また六角家から来ていた正妻を送り返し、六角家との決別を宣言した。
さらに、六角(義賢)承禎から「賢」の字を拝領し賢政と名乗っていたのも改め、長政と名乗った。
(改名は戦後のこととの異説あり)

浅井長政は、六角家家臣で肥田城主の高野瀬秀隆に働きかけ寝返らせることに成功。

●肥田城
これを知った六角(義賢)承禎は激怒し、1560年4月肥田城を攻めるが成功せず、愛知川と宇曽川を堤防で堰き止め城を水浸しにするが、堤防が決壊し、この水攻めも成功しなかった。

●野良田
水攻めをあきらめた六角(義賢)承禎は8月、大軍勢を繰り出し、城の南の野良田に布陣、その数2万5千であった。
先陣を務めたのは、蒲生賢秀、永原永興など。

一方浅井長政も、1万1千の軍勢で肥田城の後詰へ向かい、宇曽川を挟んで対峙。

宇曽川を初めに渡りだしたのは、浅井方の百々内臓助であった。戦は互角だったが、六角勢の横槍を受けた百々内臓助が崩れ出した。

これを機に、数に勝る六角勢は戦を有利に進め、誰もが勝ち戦と確信したが、その油断に付け入った浅井勢が本陣を衝くと、六角勢は大混乱となり敗走、最終的に940の戦死者を出す大敗となった。
ちなみに浅井方の戦死者も700と言われ、激戦のほどが窺える。

勝利した浅井長政は、北近江の独立大名となった。