家康の嫡男が切腹に追い込まれた
信康事件のぶやすじけん
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西暦 1579年
和暦 天正7年
場所  三河国 岡崎城
 遠江国 二俣城
略図
概要 ●尾張・三河の政略結婚
1562年
徳川(松平)家康
駿河国の今川家を離れ、織田信長と同盟を結んだ。

1567年
家康の嫡男松平信康と信長の娘徳姫(五徳)は政略結婚を行う。

しかし、信康の生母で家康の正妻築山御前は、今川義元の姪であり、築山御前にとって嫁の徳姫は叔父の仇の娘であったことから、何かにつけて嫁いびりをおこなったとされる。

信康は人望も篤く、敵将から賞賛されるほど武術に長けた若大将であり、家康の後継者として、非常に期待されていた。

●糾弾状
1579年
徳姫から織田信長に、夫信康を讒言する書状(糾弾十二ケ条)が届く。築山御前と信康が、敵である甲斐国武田勝頼に密かに通じでいるという内容であった。

●厳罰
信長はただちに、書状を届けた信康の家老酒井忠次に真偽を正すが、忠次は明確な弁明ができず、十二ケ条のうち十ケ条までを肯定したことから、家康に築山御前と信康の処刑を命じる。

徳川家では、あまりにもの無理難題に、織田家との同盟を破棄し武田に通じるべきとの強硬論も取りざたされた。

結局家康は、正妻築山御前二俣城への護送途上暗殺させ、次いで嫡男松平信康を幽閉先の二俣城で切腹させた。介錯は服部半蔵に命じた。

この事件の責任をとり、傅役の平岩親吉は蟄居となった。

●背景の諸説
尚、この事件の背景には諸説がある。
管理人の見解も若干交えて、諸説のいくつかを書くと・・・

(1) クーデター阻止説
松平信康築山御前、またその家臣たちが密かに企てた家康暗殺+武田への寝返り計画を知った徳姫が、これを信長に伝えたという通説。

確かに、今川義元が信長に討たれたあと、駿河国に戻らず岡崎にとどまった家康が、築山御前や信康をなかなか取り戻そうとしなかったことは、たとえ今川家からの妨害があって実現しずらかったとはいえ、「家康に裏切られた」と考えた母子の恨みを買うに充分な原因になり得たであろう。

また家康の信頼篤かった家臣、大賀弥四郎は、1575年に武田に内通したことから処刑されており、岡崎と甲斐には浅からぬ繋がりがあった。

(2)信長遠謀説
織田信長が、自分の後継者である織田信忠が信康に比べはるかに劣っているのに気づき、将来織田家が徳川家の軍門に下るのを恐れて、事前に信康を取り除いたとする説。

ただ、信忠は信長が悲観するほどの器量なしではなかったようだし、信長が自分の死後のことまで真剣に悩むような性格だとはどうしても思えないので、この説は捨てたい。

(3) 家康黒幕説
罪もない僧侶や町人を殺害するなどの残虐行為が目立つ信康を、父家康が見限ったという説。

信康の墓が質素だったり、信康死後、家康が徳姫に2千石の領地を与えていることがその証拠だというが・・・

(4) 武田家謀略説
信玄なきあと勢いの衰えていた甲斐武田家が、織田・徳川連合の内部分裂を謀って、信康が武田に通じたとの流言をした、という説。
これも当時の戦況を考えると充分納得できるが・・・