天下布武へ向けた畿内平定戦
信長の上洛戦
のぶながのじょうらくせん
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西暦 1568年
和暦 永禄11年9月
略図
関連する場所  美濃国 岐阜城(先の稲葉山城)
 近江国 観音寺城
GOOGLE MAP 近江国 和田山城
 近江国 箕作城
 近江国 桑実寺
 山城国 勝龍寺城
 摂津国 芥川城
 摂津国 池田城
GOOGLE MAP 摂津国 越水城
GOOGLE MAP 摂津国 滝山城
 山城国 本國寺
写真
観音寺城遠景
概要 ●信長立つ
尾張国内を平定し、三河国徳川家康近江国北部(江北)の浅井長政と同盟し、斎藤家を滅亡させ美濃国を支配下に入れ、さらに伊勢国北部(北伊勢)までも版図に加えた織田信長は、1568年9月7日、満を持して上洛戦を開始した。

将軍足利義輝を殺害し、畿内において権勢を欲しいままに貪る三好家を打倒し、信長を頼ってきた義輝の弟、足利義昭を将軍職につかせることが表面上の目的ではあったが、実質的には天下布武に向けた行動を織田信長は開始したわけである。

●六角氏攻め
岐阜城を出発し京都までの道筋において、敵対する唯一の勢力は、近江国南部(江南)を支配する六角承禎(義賢)であった。

上洛戦の開始前から六角承禎(義賢)に対し信長は、京都守護職を与えるという条件で領内の通過を認めさせようとしていたが、三好家と呼応していた六角承禎(義賢)はこれを拒否していた。

信長は、六角承禎(義賢)の籠る本城の観音寺城や、六角家の主力が配された支城の和田山城ではなく、もうひとつの重要な支城で、難攻不落とされていた箕作城を2日間で攻め落とし、六角承禎(義賢)観音寺城から追うことに成功、さらには六角家配下の近江衆を次々に降伏させた。(箕作城攻め)

信長は、不破光治を美濃国立正寺に待機している足利義昭への使者として派遣し、9月22日に安土の桑実寺で足利義昭を迎え、琵琶湖を船で大津へ渡り、9月26日に京都へ入った。

●入洛
信長は東福寺に本陣を置くと、岩成友通(三好三人衆)の守る勝龍寺城柴田勝家蜂屋頼隆森可成、坂井政尚に攻めさせ攻略、さらに山崎に兵を進め、摂津国芥川城の細川昭元、三好長逸(三好三人衆)を攻めて追い出し、これに応じる形で篠原長房の越水城、滝山城も開城した。
三好勢は、傀儡将軍足利義栄とともに本国の四国へと退去して行った。

信長は足利義昭とともに芥川城に入城して本営としたが、その際大和国松永久秀が名茶器である九十九茄子を献上し臣下についた。

さらに10月には、池田勝正摂津国池田城を攻め降伏させる。

畿内をことごとく平定した信長は、10月14日に京都に凱旋した。
また足利義昭も京都に戻り、本國寺に入った。

さらに信長は細川昭元の屋敷を足利義昭の御殿に定めた。義昭は狂喜し、自ら三献を与えるとともに、盃と刀を信長に下賜したという。

10月18日、足利義昭は第15代征夷大将軍に就いた。

その後、足利義昭は、屋敷に観世大夫を招いて観能の会を開催、十三番の演目を予定していたが、信長は、畿内がまだ不安定であるとの理由で五番に省略した。

信長は、義昭から再三に渡り副将軍か管領への就任を要請されたが固辞した。これは、既成の権力に従うつもりは鼻からなかったためで、このときすでに、織田信長と将軍足利義昭との間の確執が始まっていた。

●岐阜へ
信長は10月26日に京都を発し、28日に岐阜城へ戻った。
その他 約1ヶ月半で近江国と畿内を平定するという、驚異的な早業であった。