大友宗麟が当主になるきっかけとなった騒動
二階崩れの変にかいくずれのへん
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西暦 1550年
和暦 天文19年2月
関連する場所 GOOGLE MAP 豊後国 大友氏館
略図
概要 ●大友義鑑の後継者争い
豊後国肥後国筑後国守護の大友義鑑は、嫡男の義鎮(大友宗麟)を廃嫡し、側室の子である塩市丸に後を継がせようとしていた。

これは、義鎮の粗暴さを疎んじたことが表向きの理由であったが、義鎮の母である正室はすでに他界していたため、事実上の正室である若い側室の子、塩市丸を溺愛したためであったと言われている。

また、義鑑の重臣のひとり入田親誠も自らの立場を優位にするため、廃嫡推進派の筆頭となって水面下で暗躍していた。

しかし他の重臣、小佐井大和、斎藤播磨、津久見美作、田口蔵人の四人は、義鎮の廃嫡は大友家のためにならないと義鑑に諫言。
義鑑はこれに激怒、側近たちに反対派の重臣たちを討つよう命じた。

重臣のうち、まず小佐井大和、斎藤播磨のふたりが館に呼び出され、不意打ちに斬られたが、このことが津久見美作、田口蔵人の耳に入り、彼らはもはや逃れられないことを悟り逆に打って出ることを決意した。

●主君の館
津久見美作は館に侵入し、一階で寝ていた義鑑の側室とその子の塩市丸を殺害、田口蔵人は二階へ駆け上がり、当主の大友義鑑を殺害した後、津久見も田口も館にいた家臣たちに討たれた。

●宗麟の決意
その夜大友義鎮(大友宗麟)は鉄輪(かんなわ)の浜脇館(別府)にいたが、この騒ぎを聞きつけ府内に戻り、廃嫡推進派の入田親誠を追い、大友家当主となることを決意した。
その他