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誕生 | 1557年(弘治3年) |
生誕地 | |
父 | 那須資胤 |
母 | 蘆野資豊の娘 |
幼名 | 太郎 |
名 | |
官名 | 従五位下、大膳太夫、修理太夫 |
近親など | 子:那須資景、正洞院(佐竹義宣の正室)など |
ゆかりの地 | ![]() |
略歴 | ●烏山 1557年 (1歳) 下野国烏山城城主で、北条氏康の家臣、那須資胤の子として生まれる。 ●内乱 1560年 (4歳) 小田倉の戦での敗戦をきっかけに、父、那須資胤が、家臣の大関高増、大田原綱清らと対立。 その後、大関、大田原方に味方した常陸国の佐竹義重との抗争に発展。 ●家督 1568年 (12歳) 父、那須資胤が、自らの隠居を条件に大関高増、大田原綱清と和睦。 これにより、資晴が家督を相続。 1585年 (29歳) 塩谷義綱の川崎城攻めに向かう途上、薄葉原にて待ち受けていた宇都宮国綱、芳賀高武、壬生義雄らと戦い勝利。 宇都宮家の喜連川城、泉城、山田城、宇都野城、乙畑城、鷲宿城などを攻め落とす。 (薄葉原の戦) ●失脚 1590年 (34歳) 豊臣秀吉の小田原城攻めに遅参したことから、本領を奪われる。 しかし、大田原晴清の陳情により、子の藤王丸(那須資景)に5千石が残される。 1600年 (44歳) 関ヶ原の戦では東軍につき、戦後、那須資景と合わせて1万石に加増される。 その後、徳川家康の御伽衆に。 1610年 (54歳) 死没。 これにより、子の那須資景は1万石以上の大名に。 (那須藩、初代藩主) |
死没 | 1610年8月7日(慶長15年6月19日) (享年54歳) |
レクイエム | 源平時代、屋島の戦において、船上の扇を弓で射た逸話で知られる那須与一宗高の末裔。 |