越後上杉家を仕切っていた、大大名並の陪臣
直江兼続なおえ かねつぐ
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誕生 1560年(永禄3年)
生誕地 越後国 上田
樋口惣衛門兼豊
泉氏
幼名 与六
樋口重光
官名 従五位下、山城守
近親など 正妻:お船の方長尾景虎(上杉謙信)の側近、直江景綱の娘で、直江信綱の元正室)
子:本多政重(養子)
ゆかりの地  越後国 与板城
 出羽国羽前 米沢城
略歴 ●樋口家
1560年 (1歳)
越後国長尾政景家臣、樋口家に生まれる。

●上杉家の側近
1564年頃 (5歳)
長尾政景の妻、綾(仙洞院)の推薦により、幼くして上杉景勝の小姓に。

長尾景虎(上杉謙信)に仕えることになった上杉景勝に従い、春日山城へ。

1580年 (21歳)
この頃、上杉景勝の側近として活躍。

1581年 (22歳)
同じく景勝の側近、直江信綱が毛利秀広に殺害されると、信綱の娘お船の方と結婚(婿養子)し、直江家を継ぎ与板城主に。

その後、狩野秀治とともに上杉景勝の家老職を務める。

北越後の新発田重家が、御館の乱の恩賞への不満から謀反(新発田重家の乱)。

1582年 (23歳)
織田家の台頭により、上杉家は信濃国、関東、北陸から攻められ滅亡の危機にあうが、本能寺の変で信長が死に危機を脱出。

1583年 (24歳)
敵対していた織田家との関係修復に尽力。

山城守を叙任。

●秀吉への臣従
1586年 (27歳)
主君景勝が豊臣秀吉の臣下につく。(越水の会)

1587年 (28歳)
新発田重家の乱が終結。

1589年 (30歳)
佐渡国攻めで貢献。

1592年 (33歳)
文禄の役では、朝鮮に渡海。

1593年 (34歳)
兵に発病者が多く、帰国。

●大大名並の30万石
1598年 (39歳)
上杉家が会津など131万石に移封されると、領地の中から出羽国羽前米沢30万石を与えられ、米沢城主に。

●直江状
秀吉の死去後は、以前から親交のあった石田三成との関係から、景勝とともに反徳川家康派に。
家康の上洛命令に対して、家康への強烈な弾劾状である「直江状」をつきつける(家康の外交僧西笑承兌充て)など抵抗。これが家康を激怒させたことから、家康の会津征伐が決定。

1600年 (41歳)
関ヶ原の戦が起こると、出羽国羽前最上義光を攻めるが、三成ら西軍が敗戦したことで米沢城に退却。(長谷堂城の戦

●米沢
その後徳川家康に降伏するも、上杉家は米沢30万石に減封。兼続は米沢の領土を景勝に返上。

その後、米沢の築堤などの行政で活躍。

1620年 (61歳)
江戸で病没。
死没 1620年(元和5年)12月 (享年61歳)
レクイエム 上杉景勝の家老でありながら、大大名並の扱いをされていた。寡黙な主君に代わる事実上の施政者だったと考えられる。

しかし家康を激怒させ、上杉家の大減封の原因を作ったことも確か。