阿波平定を成し遂げた長宗我部元親
中富川の戦なかとみがわのたたかい
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西暦 1582年
和暦 天正10年8月〜9月
略図
場所  中富川の戦場(この辺り)
 阿波国 勝端城
 阿波国 一宮城
 阿波国 夷山城
 阿波国 岩倉城
概要 ●四国平定の野望
四万十川の戦で一条家に勝利し、土佐国一国を平定した長宗我部元親の野望は尽きず、四国全土の平定を目指していたが、これに異を唱えたのは織田信長であった。

信長は、元親の勢力拡大は、後々禍根を残すことを警戒したのである。
信長は元親に対し、讃岐国伊予国のからの撤退を命じたが、元親はこれを無視した。

●信長動く
1582年5月、信長は三男織田(神戸)信孝と重臣の丹羽長秀に四国征伐を命じるとともに、三好笑岩(康長)を先鋒に阿波国へ攻め込ませ、笑岩は長宗我部に寝返っていた一宮成佑の一宮城、さらには庄野兼時の夷山城を攻略するなどの勢いを見せた。

しかし6月2日本能寺の変が起こりると、三好笑岩(康長)も、堺から渡海してきていた織田(神戸)信孝阿波国から退去したため事態は一変する。

●勝端城
長宗我部元親の子、長宗我部信親はこの機をとらえ、阿波国の拠点である勝端城の攻略を決意した。
勝端城は三好一門である讃岐国十河家を継いでいた十河存保の支配下にあった。

しかし長宗我部元親は、兵たちの疲労が大きいことから勝端城攻めを断念、信親を土佐国に退かせた。

●中富川の戦
そして8月、長宗我部元親は満を持して勝端城を攻めに出陣、途上にある味方の城兵も次々に従軍し、その総数は2万3千に及んだ。

長宗我部勢は中富川(現在の吉野川)南岸の中島に集結、一方の十河存保も勝端城から出て勝興寺に本陣を置き5000の兵を配した。内2千には中富川の川砂を掻き揚げた仮の陣地を構築させた。

8月28日、長宗我部勢の攻撃が開始されると、数に劣る十河勢は劣勢となり、矢上城主の矢野虎村を討たれるなどの大打撃を蒙り勝端城へ退却した。

●勝端城攻め
大勝利を得た長宗我部元親は、紀伊国から援軍に来た雑賀衆とともに勝端城を攻め落とし、十河存保讃岐国の虎丸城へ追った。

その後長宗我部元親は、中富川沿いを上流に向かい、三好康俊の籠る岩倉城を攻め落とし、阿波国を平定した。