三段撃ち戦法で武田騎馬隊を打ち破った
長篠の戦ながしののたたかい
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西暦 1575年
和暦 天正3年5月
写真
連子川に沿って構築された馬防柵


長篠城本丸跡
場所  三河国 長篠城
 三河国 設楽原の戦場
関連する略図
概要 ●長篠城
1573年8月徳川家康は、三河国北部(奥三河)の長篠城主で、武田家家臣の奥平貞昌(信昌)の誘降に成功、その奥平貞昌(信昌)をそのまま長篠城にとどめ、武田家への最前線とした。

貞昌の寝返りは、まだ公表されていなかった武田信玄の死を確信したためである。

これに激怒した武田勝頼は、1574年5月、家康の遠江国における重要拠点高天神城を猛攻の末攻略。(高天神城の戦(第一次))。

そして翌1575年5月、長篠城を奪い返すために1万5千の軍勢を率いて甲斐国府中から出陣、城を包囲し猛攻撃を始めたたが、城兵も頑強に防戦に努め、城はなかなか落ちなかった。

●鳥居強右衛門
しかし、兵糧蔵を攻略され後のなくなった奥平貞昌は、戦の状況説明と援軍の催促をするために、家臣の鳥居強右衛門に密かに城を抜け出させ、岡崎城徳川家康の元へ向かわせた。

岡崎城には徳川家康の同盟者である織田信長も駆けつけており、信長はすぐさま3万の軍勢を援軍として派遣することを決定した。

喜び勇んで長篠城へ戻ることにした鳥居強右衛門だったが、途中で武田方に見つかり捕らわれてしまう。

武田方は落城を早めるために、「援軍は来ないから籠城は無駄である」と城内の兵に向かって言えば命を助けると強右衛門に迫り了承させるが、土壇場で強右衛門は「援軍は間もなく来る。もうしばらくの辛抱である」と叫び、それを聞き喜ぶ城内の人々の目の前で武田勢に串刺しにされてしまった。

●設楽原の馬防柵
織田・徳川連合軍3万5千は、5月18日に長篠城の西、設楽原(したらがはら)に着陣すると同時に、兵に持たせてきた木材と縄を使い、連子川に沿って馬防柵を構築、さらには空堀を掘り始めた。

1万5千と寡兵であることを理由に、武田方の重臣たちは撤退するよう武田勝頼に進言するが、勝頼は彼らを臆病者と罵り撤退を拒否、5月20日設楽原(したらがはら)に布陣した。
ここでの撤退は、三河国を完全に失うばかりか、折角落とした高天神城を中心とした遠江国をも失うことになってしまうことを、勝頼は恐れたに違いない。

●鳶巣山砦の攻略
決戦に先立ち織田信長は、家康の家臣酒井忠次の提案を受け入れ、忠次と金森長近に鉄砲隊を含めた4000を預け、武田軍が長篠城の抑えのために兵を残している鳶巣山砦など5つの砦(長篠城の南方)を密かに攻略するよう命じた。

織田・徳川連合軍は5月21日の早朝、設楽原の馬防柵の中に布陣し、東方の武田軍に対峙した。

午前6時頃、連合軍の鳶巣山砦急襲が成功。
これにより、長篠城攻略の糸口を失い、しかも前面に織田・徳川の本隊、背後に奥平貞昌の籠ったままの長篠城、さらには鳶巣山などの諸砦も奪われ、周囲を敵に囲まれた形になり武田勢は退路を失った。

●三段撃ち戦法
武田勝頼は決死の覚悟を決め、山県昌景隊を皮切りに、馬防柵の中の徳川・織田勢への突撃を繰り返したが、敵は馬防柵の中にあって動かず、突進してくる武田の騎馬隊の機動力を柵や空堀で弱め、そこに3千丁の鉄砲隊を3隊に分けて絶え間なく打ち続ける「三段撃ち戦法」で連続射撃した。

これが抜群の効果を発揮し、武田方は馬場信春山県昌景内藤昌豊土屋昌続真田信綱真田昌幸、原昌胤らの有力部将を失い、総勢1万5千の内約1万の死者を出すという史上まれに見る大敗を喫してしまった。

また戦闘開始の直前、親類衆である武田信廉、穴山梅雪(信君)、武田信豊などは武田家の滅亡だけは避けなければならないとの判断から、戦場から離脱した。

●戦後
武田の騎馬隊に大勝した織田信長は、長篠城を死守した奥平貞昌を賞し、自らの「信」の字を与え、奥平信昌と名乗らせた。