蝮の道三を討ち滅ぼした息子
長良川の戦ながらがわのたたかい
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西暦 1556年
和暦 弘治2年4月
周辺図
関連する場所  美濃国 稲葉山城(後の岐阜城
 美濃国 鷺山城
写真
長良川の川原から臨む金華山と岐阜城天守
 

鷺山城跡
概要 ●斎藤父子の対立
1548年、家督を嫡男斎藤義龍に譲り、鷺山城に隠居していた美濃の蝮、斎藤道三であったが、その後義龍を無能と決めつけ疎んじるようになり、孫四郎や喜平次といった義龍の弟たちを寵愛し始めていた。
その理由は、斎藤義龍は道三の実子ではなく、旧主土岐頼芸の子だったためといわれている。

●弟討ち
そんな父の態度に激怒した斎藤義龍は1555年、攻勢に出る。
叔父の長井道利と謀って、明日も知れぬ重病と称して稲葉山城(のちの岐阜城)に籠り、弟の孫四郎とや喜平次を、今後のことを相談したいと偽り呼び寄せて誅殺した。実際に手を下したのは、日根野弘就であった。

斎藤道三はこれを山下の別邸で知り、あわてて鷺山城に入った。

●長良川
翌1556年4月、斎藤道三は子の義龍攻めのための兵を募るが、隠居の身だけに思うように集まらない。
旧主から国を盗った男ということで、将士からの人気がなかったことも影響したはずである。

4月20日、斎藤義龍は1万7千の兵で稲葉山城を出陣、長良川をはさんで、父の元に集まった7千と対峙、義龍の先鋒、竹腰道塵の突撃により開戦した。

その道塵を討ち取るなど、緒戦は道三勢が優勢であったが、義龍方は多勢であり、しかもなかなかの采配振りを見せる息子のために道三が次第に押され始めた。
日頃義龍を無能と罵っていた道三であったが、その考えは誤りであったと認めたという。

●蝮の最期
最後は、義龍方の長井忠左衛門が道三に組み付いたところを、小牧源太が駆け寄り、脛を払い倒した上で首を掻き切った。

斎藤義龍は、首実検後、父を殺した罪からその場で出家することを誓い、のちに、中国で同じように父を殺した男にちなんで、飯賀と名乗ることになる。

道三の娘婿である尾張国織田信長は、義父への援軍に向かっていたが、道三討ち死にの報に尾張国へ退却を開始。これに追撃戦を仕掛けた斎藤義龍方に、多くの将士を討たれた。
その他 この戦をきっかけに、織田信長の当面の課題は、尾張国の平定と美濃国攻略というふたつの難題となり、のちの天下平定への道のりに大きな障害となった。