謀略で中国を席巻した知将
毛利元就もうり もとなり
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誕生 1497年(明応6年)
生誕地 安芸国 吉田郡山
毛利弘元
生母:福原氏、養母:杉大方(父、毛利弘元の側室)
幼名 松寿丸
元服名 多治比少輔次郎元就、もしくは毛利少輔次郎元就
官名 治部少輔、右馬頭、陸奥守
近親など 正妻:吉川国経の娘(妙玖)
兄:毛利興元
弟:相合元綱など
子:毛利隆元吉川元春小早川隆景、穂井田元清、小早川元総(毛利秀包)など
孫:毛利輝元など
ゆかりの地  安芸国 多治比猿掛城
 安芸国 吉田郡山城
略歴 ●小領主の子
1497年 (1歳)
安芸国吉田郡山城主で、毛利広元の子として生まれる。

1500年 (4歳)
父が隠居し兄の毛利興元が家督を継ぐ。

父に連れられ吉田郡山城の支城、多治比猿掛城に入る。

1506年 (10歳)
父の死去により、多治比猿掛城主に。

家臣の井上元盛から所領を横領され、多治比猿掛城から追われる

1507年 (11歳)
元服。

●兄の死
1516年 (20歳)
兄、毛利興元が死没し、興元の子、幸松丸が毛利家の家督を継ぐ。
元就は若年の幸松丸を後見。

●西国の桶狭間
1517年 (21歳)
その隙をついて、出雲国尼子家の後ろ盾を得た武田元繁に攻められるが、元就が初陣し、敵の先鋒、熊谷元直に勝利。(有田中井手の戦

●尼子氏
その後、尼子家の圧迫が強まったため、周防国などの太守、大内家から離反し尼子家に寝返る。

●家督相続
1523年 (27歳)
大内家から安芸国侵攻を受けるが、鏡山城の攻防戦で謀略を用いて勝利。(鏡山城の戦)

甥で毛利家当主の幸松丸が死没、元就が家督を継ぎ、吉田郡山城主に。

1525年 (29歳)
●再び大内氏
尼子家の重臣、亀井秀綱の家督介入などにより、反元就派が元就の弟、相合元綱を担ぎ謀反を起こすが、元就はこれを平定。

その後、尼子家から離反し、再び大内義興の傘下に入る。

1528年 (32歳)
大内義興が死没、大内義隆が大内家を相続。

1529年 (33歳)
母方の実家である高橋家の反対派、高橋興光を殺害し粛清。

その後、国内の有力な豪族、熊谷家や天野家と通じ地盤を固める。

1541年 (45歳)
出雲国尼子晴久率いる3万に吉田郡山城を攻められるが、3千の兵で籠城。大内義隆が派した陶晴賢の救援もあり守りきる。(吉田郡山城の戦

大内義隆と協力し佐東銀山城を攻め、安芸武田家を滅ぼす。

●独立
1542年 (46歳)
大内義隆に従い月山富田城尼子晴久を攻めるが敗退、これを受け大内傘下からの独立を画策し始める。(月山富田城の戦(第一次)

1544年 (48歳)
三男の徳寿丸(小早川隆景)を小早川家の養子に送り込む。

1547年 (51歳)
二男の松寿丸(吉川元春)吉川興経の養子に送り込む。

●安芸国平定
1550年 (54歳)
この頃までに、元春と隆景を養子先の当主に据えることに成功。
これにより安芸国一国、さらには石見国備後国の一部も支配下におく。
(毛利両川体制)

毛利家中で幅を利かせていた井上元兼とその一党を殺害。

●大内義隆の死と陶氏との対立
1551年 (55歳)
大内義隆が、家老の陶晴賢の謀反により自害。(大寧寺の変)

その後、陶晴賢と領土問題から敵対するように。

謀略(内通を約する偽書状など)を駆使し、陶晴賢にその参謀、江良房栄を殺させ、陶家の兵力を低下させる。

1555年 (59歳)
厳島に陶晴賢を誘い込み、村上武吉の水軍を味方につけ戦い勝利。(厳島の戦

その後、大内領へ侵攻。(防長経略)

●周防国
1557年 (61歳)
陶晴賢の傀儡であった大内義長を自害させ、大内家を滅ぼす。(勝山城の戦)
これにより周防国長門国の大部分も支配下に。

隠居し、嫡男毛利隆元に家督を譲る。

1561年 (65歳)
三村家親が平定した備中国を支配下に。

門司城の戦(豊前国)で大友家に大勝。これにより北九州に勢力を広げる。

1562年 (66歳)
石見国の石見銀山を支配。

1563年 (67歳)
嫡男、毛利隆元が死没。
隆元の嫡男、毛利輝元に家督を継がせる。

●出雲国
1566年 (70歳)
月山富田城を攻め尼子義久に勝利。尼子家を滅亡させる。
第二次月山富田城の戦

これにより、出雲国伯耆国を手中にし、毛利家に従った備中国美作国備前国の諸豪族の支配地を含め中国の大部分120万石の支配者に。

1568年 (71歳)
宇都宮豊綱・一条兼定らに攻められた伊予国の河野通宣を救援。(伊予出兵)

1569年 (73歳)
筑前国博多の支配権をめぐり、大友宗麟と対立。(立花城の戦
一旦は立花城を手に入れる。

尼子家の残党山中鹿之介に担ぎ出された尼子勝久出雲国伯耆国を奪回されたため九州から撤退。

1570年 (74歳)
布部山の戦で尼子勝久に勝利し、再び出雲国伯耆国を支配下に入れる。

1571年 (75歳)
吉田郡山城で死没。
死没 1571年(元亀2年)6月 (享年75歳)
レクイエム 巧みな謀略を使い、安芸の小大名から中国地方を席巻するまでにのし上がった知将である。

その死に際し、3人の息子に説いた、「毛利の三本の矢」の逸話は有名だがイソップ物語からとった創作との説もある。。

ただ、太守である尼子家や大内家の衰亡を目の当たりにしてきたことから、決して天下を望んではいけないと、息子たちを手紙で戒めたのは事実で、このことが後の関ヶ原の戦において、西軍の総大将に担ぎ出された嫡孫、毛利輝元を自重させる原因のひとつにもなった。