名槍を呑みとった黒田官兵衛の重臣
母里太兵衛もり たへい
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誕生 1556年?(弘治2年?)
生誕地  
曽我一信
母里氏
幼名  
母里太兵衛友信
官名 但馬守
近親など 正妻:大友宗麟の娘
弟:野村祐勝
ゆかりの地  播磨国 姫路城
 筑前国 福岡城
 筑前国 鷹取城
略歴 ●播磨
1556年 (1歳)
播磨国の国人小寺政職の家臣、曽我一信の子として生まれる。

1569年 (14歳)
小寺家重臣で姫路城主の黒田官兵衛に仕える。

この頃、母方の姓である、母里姓を名乗る。(時期は推定)

●初陣
1573年 (18歳)
主君、黒田官兵衛、中国に進出してきた織田信長家臣の羽柴(豊臣)秀吉に追従。

別所家との印南野の戦で初陣。(初陣ではないとの異説あり)

武勇に優れていることから、その後常に黒田軍の先鋒を務める。

●主君の失踪
1578年 (23歳)
主君黒田官兵衛が謀反の噂のある荒木村重の説得に有岡城に単身乗り込むが、その後行方不明に。(有岡城の牢に捕縛)

その際、黒田官兵衛への忠誠を誓う起請文に連署。

1579年 (24歳)
織田勢の攻勢により有岡城が落城、主君黒田官兵衛が救出される。

1580年 (25歳)
羽柴(豊臣)秀吉三木城兵糧攻めにも黒田官兵衛に従い従軍。

主君黒田官兵衛羽柴(豊臣)秀吉姫路城を譲り渡す。

1582年 (27歳)
備中高松城の水攻め

本能寺の変

中国大返し

山崎の戦

●豊前
1586年 (31歳)
九州攻めでは、宇留津城攻めなどで貢献。

1587年 (32歳)
主君黒田官兵衛豊前国京都郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡などに12万石を拝領すると、6千石を拝領。

1589年 (34歳)
主君黒田官兵衛が隠居し、息子の黒田長政に家督をゆずると、引き続き黒田長政に使える。

1592年〜1597年 (37歳〜42歳)
二度に渡る朝鮮への侵攻(文禄の役慶長の役)にも参陣。

1600年 (46歳)
関ヶ原の戦では、豊前国にあって黒田官兵衛に従い九州の平定から天下取りを目指し、西軍に呼応した義父の大友宗麟を攻め降伏させる。

●筑前
主君黒田長政関ヶ原の戦の功により筑前国に52万3千石を拝領。

その際、鷹取城主に。(1万8千石)

1601年 (47歳)
主君黒田長政福岡城を築城すると、城内に屋敷を構える。

1604年 (50歳)
黒田官兵衛が京都伏見で死没。

1615年 (61歳)
死没。
死没 1615年7月1日(元和元年6月6日) (享年61歳)
レクイエム 朝鮮の役の休戦中に、京都伏見にいた福島正則の元に使いした際、飲み干せば褒美は望み放題と言われ、大盃に注がれた酒を飲み干し、正則の所持していた名槍「日本号」を所望し手に入れたという逸話が、のちに「黒田節」として謡われることとなった。