上杉勢をけちらし山形57万石の太守となった
最上義光もがみ よしあき
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誕生 1546年(天文15年)
生誕地 出羽国羽前
最上義守
小野少将(大崎氏?)
白寿丸(幼名)、源五郎、二郎太郎、高楡小僧丸、虎将、出羽侍従
官名 従四位上、右京大夫、出羽守、左近衛少将、侍従、正四位(贈)など
近親など 妹:義姫(保春院)(伊達政宗の母)
正妻:釈妙英(大崎義直の娘)
子:最上義康、最上家親、清水義親、山野辺義忠、上野山義直、大山光隆、駒姫など
ゆかりの地  出羽国羽前 山形城
略歴 ●最上家嫡男
1546年 (1歳)
出羽国羽前の大名、最上義守の嫡男として生まれる。

最上家の勢力は弱く、米沢の伊達家の下風に甘んじていた。

1562年 (16歳)
鷹狩の最中、10名ほどの賊に襲われるが自らも戦いこれを撃退。

●家督相続
1571年 (25歳)
父、最上義守が義光の弟、中野義時に家督を譲ろうとしたことから内紛となるが、父を幽閉し解決。家督を相続し山形城主に。

1574年 (28歳)
伊達輝宗の支援を受けた弟の中野義時に攻められ苦戦するが、一旦和睦。

●数々の謀略
1575年 (29歳)
再び中野義時との対立が表面化するがこれを討ち平定。

1577年 (31歳)
最上家に敵対する諸城(最上八楯)の盟主、天童頼貞の天童城を攻めるが失敗、和睦し頼貞の娘を側室に。

1578年 (32歳)
上山城の上山満兼を攻略するために、その家臣、里見民部を抱き込み満兼を討たせる。

1579年 (33歳)
天童頼澄天童城を攻めるが、最上八楯の延沢満延らの抵抗を受け敗北。

1581年 (35歳)
天童頼澄の弟で東根城主、東根頼景を謀略により討ち取る。

天童頼澄の義父で小国城主の、細川直元を攻め討つ。

1582年 (36歳)
家臣の氏家盛棟に命じ延沢満延を調略、天童家から離反させる。
これにより最上八楯が弱体化。

1583年 (37歳)
庄内の大宝寺義氏に攻められるが、事前にその家臣、前森筑前の内応を得ていたことから逆に急襲し、大宝寺義氏を討ち取る。

1584年 (38歳)
谷地城主の白鳥長久が無断で織田信長と誼を通じたため、山形城に招き寄せ殺害。
その後、谷地城を攻略。

天童城を攻め落とす。これにより最上八楯が崩壊。

1587年 (41歳)
大宝寺義氏の弟、大宝寺義興が上杉家に寝返ろうとしたことからこれを攻め、自害させる。

これを受け、義興の縁戚である本庄繁長の大軍に攻められ大敗。(十五里ヶ原の戦)
これにより庄内地方を上杉家に奪われる。

●伊達氏との対立と和睦
1588年 (42歳)
伊達政宗大崎義隆を攻めると、大崎家への援軍を派遣し伊達軍に勝利。
この後、妹義姫の取り成しで伊達家と和睦。(大崎合戦)

●秀吉への臣従
1590年 (44歳)
豊臣秀吉小田原城攻めに参陣。
これにより本領24万石を安堵される。

1595年 (49歳)
秀次事件の際、豊臣秀次の側室になるべく上洛していた娘、駒姫が誅され、義光も謹慎処分に。

●東軍
1600年 (54歳)
関ヶ原の戦では、徳川家康の東軍につく。

西軍に呼応した上杉景勝(長尾顕景)の家老、直江兼続の侵攻を受け、山形城の支城、長谷堂城周辺で激戦となる。(長谷堂城の戦

その際伊達政宗が援軍を派遣するが、関ヶ原の状況が判明しなかったことから戦況を見守るにとどめた。

その後関ヶ原の戦で西軍敗れるの報を受け、直江兼続が米沢城へ退却を開始。最上軍はこれを追撃するが、前田慶次郎ら少数精鋭の反撃にあい直江兼続を取り逃がす。
ただし庄内地方を奪回。

●57万石の太守
その後、上杉勢を山形に釘づけにした功により、徳川家康から33万石を加増され、山形藩57万石の太守に。

●嫡男を殺害
1611年 (65際)
不仲となっていた嫡男の最上義康を、家臣に命じ暗殺。

これにより嫡子は、

1614年 (68歳)
山形城で死没。
死没 1614年(慶長19年)1月 (享年68歳)
レクイエム 以上のように、謀略に長けていたことから、一代にして小大名から57万石の太守となったことがわかる。智勇ともに優れた武将であった。

関ヶ原の際東軍についたのは、駒姫秀次事件で処刑されたことが大きく影響したと思われる。

嫡男、最上義康の暗殺については、義康が豊臣秀吉の近習だったことから、その後天下をとった徳川家康に叛意ないことをアピールするためだったという説もある。