圧倒的な軍事力で畿内を制した武将
三好長慶みよし ながよし
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誕生 1522年3月10日(大永2年2月13日)
生誕地 阿波国
三好元長
 
幼名 千熊丸
孫次郎、三好利長、三好範長、三好長慶 
官名 伊賀守、従五位下、筑前守、従四位下、修理大夫
近親など 弟:三好実休(義賢)、安宅冬康十河一存、野口冬長など
正妻:波多野秀忠の娘、後に遊佐長教の娘
子:三好義興、娘(松永久秀の正室)
ゆかりの地  摂津国 越水城
 摂津国 芥川山城
 河内国 飯盛山城
略歴
●三好家
1522年 1歳 管領細川晴元の家臣で、後の山城国五郡(愛宕・葛野・宇治・紀伊・乙訓)の守護代、三好元長の嫡男として生まれる
●阿波
1532年 11歳 和泉国堺で、父三好元長が、対立していた同族の三好政長の讒言を受けた細川晴元の差し金により、本願寺の一向一揆に攻められ自害。この際長慶は、堺衆の機転により本国の阿波国へ逃れる
1534年 13歳 関係が悪化していた細川晴元と本願寺の講和に尽力したことから、幕臣として活躍しだす
1536年 15歳 弟の神太郎(安宅冬康)を、淡路国の海賊衆の安宅家の養子に送り込み家督を継がせる
●上洛
1539年 18歳 亡父の河内国の遺領を取り戻すために大軍を率いて上洛。将軍足利義晴や管領細川晴元近江国に追う
●畿内一の実力者
近江国六角定頼の斡旋により細川晴元と和睦し、摂津国越水城主に
1541年頃 20歳 祐筆松永久秀を重用する
管領細川晴元の家臣という立場ながら、阿波国本国も含めた総兵力では畿内でも抜きん出た存在に
1542年 21歳  嫡男、三好義興が誕生
●管領との対立
1547年 28歳 細川晴元の同族、細川氏綱に奪われた摂津国芥川山城を攻めて奪還、父の従兄、芥川孫十郎を芥川山城主に
1548年 27歳 父の実質的な仇である、叔父の三好政長を追放しようとするが許されなかったことから、細川晴元と対立
●畿内制圧
1549年 28歳 江口の戦で、弟の十河一存らが三好政長を攻め自害させる
将軍足利義晴、足利義輝父子と細川晴元を追い出し、細川氏綱を管領に就かせ、三好政権を樹立
1552年 31歳 畿内の安定を狙って、近江国六角(義賢)承禎の斡旋により、足利義輝と和睦
1553年 32歳 謀反の疑いのある芥川孫十郎を芥川山城に攻め勝利、芥川山城を居城に
足利義輝と対立し、義輝と細川晴元を攻め勝利。これにより畿内を平定
●勢力拡大
1557年 36歳 播磨国の東部と丹波国を平定
1558年 37歳 京都奪回をはかる足利義輝細川晴元らと戦うが和睦(北白川の戦)
    これにより、幕府の相判衆となり実権を掌握
1559年 38歳 松永久秀に命じ大和国を平定させる
河内国守護の畠山高政を追放し、河内国を支配していた安見直政を攻めて勝利
1560年 39歳 畠山高政が安見直政と組んで敵対してきたことから、高政の居城、高屋城を攻め勝利。河内国を支配下に
河内国飯盛山城を居城に
●下り坂
1561年 40歳 細川晴元を普門寺城に幽閉
弟の十河一存が急死
1562年 41歳 細川晴元の子晴之を奉じた畠山高政六角(義賢)承禎らに攻められ、弟の三好実休(義賢)が戦死するなど敗北。(久米田の戦
その後、居城の飯盛山城を包囲されるが、教興寺の戦畠山高政六角(義賢)承禎らに勝利し、再度京都に戻る
1563年 42歳 嫡男、三好義興が病死
1564年 43歳 弟、安宅冬康を謀反の疑いで自害させる
その後、冬康の謀反は誤りだったことを知り後悔
これらの影響からか精神に異常を来たし死没 (松永久秀または三好三人衆などが謀殺したとの説もあり)
死没 1564年8月10日(永禄7年7月4日) (享年43歳)
レクイエム 弟の安宅冬康は、三好家中でも信望の高い武将であったが、それを誅したのは松永久秀の讒言を信じたためと言われている。

また、長慶は3人の弟たちとも仲がよく(ただし冬康を誅するまで)、これが三好家の発展に大きく貢献したともいえるが、このような例は戦国期には珍しい。

畿内の覇者となっても、京都は攻めるに易く守るに難しとして、居城を移さなかった。

将軍や管領でさえも圧倒的にしのぐ実力者でありながら、古くからのしきたりにこだわり、室町幕府の転覆を企てるようなことはしなかった。