上野経営の基盤を手に入れた信玄
箕輪城の戦
みのわじょうのたたかい
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西暦 1566年
和暦 永禄9年9月
写真
箕輪城
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 上野国 八王子城
 上野国 安中城
 上野国 倉賀野城
略図
概要 ●長野家の居城
1552年、関東管領上杉憲政が北条家の圧迫により関東を追われ、越後国長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃れたあとも、その家臣である上野国西部(西上野)の強豪長野業正は、居城である箕輪城に残り長尾景虎(上杉謙信)を後ろ盾に北条家への抵抗を続けていた。

●信玄の大軍
北条家と同盟関係にあった武田晴信(信玄)が、1557年と1559年に箕輪城攻略のため大軍を派遣してきたが、城は容易に落ちず、信玄に、長野業正がいる限り上野国は攻略できないと言わしめた。

この頃の武田晴信(信玄)は、甲斐国信濃国のほとんどを掌握し、南の駿河国への侵攻と北の越後国への侵攻を計画していた時期で、すでに支配していた信濃国川中島のほかに、この上野国西部(西上野)を攻略し、その2方面から越後国を窺うという意図があったはずである。

●三度目の正直
1561年、箕輪城主の長野業正が死没し、子の長野業盛が城主となった。

それを知った武田信玄は三度目の西上野攻略戦を展開、中山道を東進しながら、1564年に八王子城、安中城を攻略、1565年には倉賀野城といった支城を攻略したため、箕輪城は孤立状態となる。

1566年、2万の大軍で箕輪城へ向かった武田信玄と長野勢は、9月28日に若田ヶ原(わかたっぱら)で野戦を展開、数に勝る武田勢の勝利となり、長野勢は箕輪城へ撤退していった。

箕輪城に立てこもった1500の長野勢は、翌朝始まった戦において武田勢600を銃撃戦で倒すなど善戦したが力尽き、城主長野業盛は自害、箕輪城はとうとう落城となった。
武田信玄は、足掛け10年でようやく箕輪城を攻略したことになる。

戦後箕輪城は武田家の上野国における経営拠点となり、信玄の重臣、内藤昌豊が城代を務めた。