毛利家と組んで備中を手中にした
三村家親みむら いえちか
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誕生 1517年(永正14年)
生誕地 備中国 星田
三村宗親
 
幼名  
通称  
官名 修理亮、紀伊守
近親など 正妻:三好氏の娘
子:庄元佑、三村元親、三村元範、三村実親など
ゆかりの地  備中国 鶴首城(成羽城)
 備中国 備中松山城 
略歴 ●備中
1517年 (1歳)
清和源氏の流れを汲む備中国星田の国人、三村宗親の子として生まれる。

????年 (?歳)
父、三村宗親が死没し家督を相続。

●勢力拡大
庄為資と連合し、備中国で勢力を拡大。

●鶴首城
1533年 (17歳)
鶴首城を改修し居城に。

●尼子家
1537年 (21歳)
出雲国の尼子経久、尼子晴久の攻勢を受け従う。

1540年 (24歳)
吉田郡山城の戦尼子晴久が大敗するとこれに離反。

●毛利家
あくまでも尼子家に従う庄為資から攻められたため毛利元就に寝返り、その後ろ盾を得る。

1542年 (26歳)
大内義隆毛利元就に従い月山富田城攻めに参陣するが敗北。(月山富田城の戦(第一次)

1551年 (35歳)
吉川元春の援軍を受けて庄高資の猿掛城を攻めるが和睦、嫡男、元祐を庄高資の養子とし、備中松山城に送り込む。

これを不服とした庄高資が再び尼子家と結んで、尼子家から吉田義辰を備中松山城代として迎え入れる。

●備中平定と松山城
1561年 (45歳)
備中松山城を攻め落とし、城代、吉田義辰を討ち取る。

備中松山城を居城とし、備中国をほぼ平定。

1565年 (49歳)
毛利家の美作方面の先鋒となって、美作国三星城主、後藤勝元を攻めるが浦上家の援軍もあり攻略できず。

1566年 (50歳)
備前国宇喜多直家に従う美作国の諸城を攻め落とす。

美作国興善寺で、宇喜多直家の刺客、遠藤又次郎、遠藤喜三郎兄弟に鉄砲で狙撃され死没。
レクイエム 家親の家督を相続する二男の元親は、毛利、宇喜多の同盟を喜ばず織田信長に従うことになるが、これが三村家滅亡につながってしまう。
死没 1566年2月24日(永禄9年2月5日) (享年50歳)