島津家が大友宗麟に勝利した
耳川の戦みみかわのたたかい
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西暦 1578年
和暦 天正6年11月
周辺図
場所  日向国 松尾城
 日向国 新納院高城
概要 ●九州の両巨頭、大友と島津
北九州における毛利家との対陣に勝利したキリシタン大名大友宗麟は、豊後国豊前国筑後国筑前国肥後国肥前国伊予国半国を版図に加えていた。

一方、薩摩国大隅国日向国を版図に入れ、北上を目指していたのが島津家であった。

●キリスト教王国建国の夢
日向国伊東義祐が島津家に追われ頼ってきたことをきっかけに、大友宗麟は子の大友義統とともに4万5千の大軍で島津家との決戦に南下した。
宗麟はこのとき、日向国の牟志賀を中心にキリスト教の王国を建築しようとも考えた。

宗麟は、寺社を打ち壊しながら行軍させたため、従う兵士達は神罰・仏罰を恐れ指揮は下がったといわれる。

宗麟はまず最初に、伊東家から島津家に寝返っていた土持親成の松尾城を攻め落とし、親成を切腹させた。

次に落とそうとしたのは、山田有信の籠る新納院高城だったが、わずか300の兵が必死に守る城は天然の要害ということもあって落ちず、宗麟は常に軍の後方で宣教師らとともに勝利の祈りを捧げていた。

●島津の援軍
やがて島津家久、吉利忠澄、鎌田政近、比志島国貞ら3000が高城の援軍に駆けつけ、数日後には島津義久の本隊も到着したことから、新納院高城の士気はさらに上がった。

本隊の出現に驚いた大友勢は総指揮を任されていた田原紹忍を中心に軍議を開くが、宗麟がいないことからなかなか方針がまとまらないばかりか、強行派と慎重派が対立してしまう始末。
最終的には、様子を見ながら進退を決めるという、慎重派の意見が通った。

しかしこれに不満のある強行派の田北鎮周が、軍令を無視し耳川(現在の小丸川)を渡河、島津勢への攻撃を開始してしまった。これを見た慎重派も仕方なく戦闘に巻き込まれる形で両軍が激突。

●島津の釣り野伏せ
島津勢は、北郷久盛らが河岸で大友勢を食い止めようとするが蹴散らされ、大友勢は一気に島津本隊に向かって突撃を開始した。
しかし、これは「島津の釣り野伏せ」戦法であった。

大友勢は、あらかじめ伏せていた敵兵からいきなり側面を攻撃され混乱したところを、新納院高城から出てきた敵勢にも後方から攻められ、さらに前面にいた島津本隊、両翼隊からの一斉攻撃にあい大敗、田北鎮周、佐伯惟教、角隈石宗、蒲池鑑盛らの重臣を失った。
戦死者は4千以上であった。

この大敗を受け、大友宗麟はやっとのことで豊後国に逃げ戻ったが、総大将が戦場の前線にいない部隊の混乱しやすさや弱さを、見事に証明した戦いでもあった。

この敗戦をきっかけに、大友宗麟は衰退への道をたどり始め、10年後豊臣秀吉を頼ることになる。