秀吉得意の干殺し戦法
三木城兵糧攻め
みきじょうひょうろうぜめ
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西暦 1579年〜1580年
和暦 天正17年2月〜天正18年1月
略図
場所  播磨国 三木城
GOOGLE MAP 播磨国 加古川城
 播磨国 野口城
 播磨国 神吉城
 播磨国 高砂城
 播磨国 志方城
 播磨国 姫路城
 播磨国 上月城
 摂津国 淡河城
概要 ●播磨討ち入り
織田信長から中国平定の指示を受けた羽柴(豊臣)秀吉は、1577年に、播磨国御着城小寺政職の家臣、黒田官兵衛の案内で姫路城に入ると、播磨国の攻略を開始した。

羽柴(豊臣)秀吉は、播磨国東部を影響下におく別所家をはじめ、ほとんどの豪族を味方に引き入れ、尼子勝久山中鹿之介らとともに備前国に近い要衝、赤松政之の上月城を攻略し、上月城には尼子勝久山中鹿之介が入った。

●別所の寝返り
ところが、一度織田家についた別所長治が1578年3月、毛利家に寝返った。

この寝返りは、加古川城での軍議の際、織田の部将羽柴(豊臣)秀吉の見下した態度に、別所家を代表して軍議に参加していた長治の叔父、別所吉親が激怒したためといわれる。

別所家は、播磨国守護、赤松家家臣の立場から、播磨国の東半分を支配するまでになった典型的な戦国大名であり、成り上がりものの羽柴(豊臣)秀吉何するものぞ、という気持ちが強かったのである。

●夜襲
別所家は三木城の修築を急ぎ、4月、三宅治忠の指揮の下、秀吉方の大村坂の陣に夜襲をかけて大勝した。これが戦の始まりであった。
夜襲に参加したのは、別所家に従い毛利家への寝返りを決めた、野口城の長井四郎佐衛門、高砂城の梶原景行、神吉城の神吉頼定、志方城の櫛橋佐京亮などであった。

●支城攻め
さらには、黒田官兵衛の主君であり御着城主の小寺政職も、別所家の離反を受けて毛利家への寝返りを決めた。

拠点である姫路城の後方(東)一帯が敵に回り、挟撃の危機に陥った秀吉は、軍師、黒田官兵衛竹中半兵衛の進言を採って、難攻不落の三木城への直接攻撃ではなく、支城である野口城を攻め、苦戦の末落城させた。

●上月城の危機
羽柴(豊臣)秀吉三木城攻めを行っている間に、上月城は当然のように毛利の大軍に囲まれた。東播磨を敵に回し、その上上月城を失ってしまっては、播磨戦線からの撤退にも繋がりかねないことから秀吉は、三木城の抑えとして竹中半兵衛に3千を託し、1万の軍勢を率いて上月城への援軍に向かうとともに、安土の織田信長に援軍を要請した。
信長は、荒木村重明智光秀滝川一益筒井順慶に援軍を命じ、さらには嫡男の織田信忠にも1万の軍勢で播磨国へ向かうよう命じた。

上月城を囲む毛利勢5万と、駆けつけた織田勢5万は対峙を続けたまま膠着状態となった。
織田方の援軍の将たちは、ここで毛利と決戦し例え勝利しても、手柄は羽柴(豊臣)秀吉ひとりのものになってしまうことがわかっており、積極的な行動をとらなかった。

秀吉は秘密裏に安土の織田信長の元へ駆け戻り相談したが、信長は敵地奥深くに取り残された形となった上月城は見捨て、東播磨の三木城攻略に専念するように厳命した。

織田勢が退却したあと、毛利勢は上月城を攻め落とし尼子勝久を自害させ、山中鹿之介を捕らえると、備中国へと戻っていった。
山中鹿之介は護送途上で殺害された。
(上月城の戦)

退却する織田勢を追い討って、毛利勢が援軍に来てくれると期待していた三木城は落胆した。

上月城から三木城に戻ってきた織田勢は、神吉城を謀略で攻略したのを手始めに、志方城やその他の支城を次々に攻略し、翌1579年2月まで三木城への兵糧ルート遮断に成功するとともに三木城を包囲、秀吉は三木城の北東の平井山山頂に本陣を置き、三木城を見下ろす形となった。

援軍に来ていた織田信忠以下の織田の部将たちは、三木城は秀吉に任せ播磨国をあとにした。

●干殺し
その後、三木城の兵糧が刻一刻と減ることを懸念した毛利方も、海路兵糧搬入を試みるが、秀吉軍の包囲網を破ることはできなかった。

毛利では吉川元春小早川隆景が、三木城と連絡を取り合い秀吉と決戦をして一気に上洛し、信長を京都から追い払うべきという強硬論もあったのだが、慎重派である当主の毛利輝元が反対したことから断念した。

10月、織田の部将荒木村重が毛利に寝返るという大事件が起こり、摂津国方面からの補給路が繋がったが、戦況に著しい変化はなかった。

翌1589年2月、膠着状態を打破するために、別所治定が秀吉の本陣へ切り込みを試みるが敗戦、別所治定は討ち死にした。

5月、織田勢が重要な支城である東方の淡河城を攻略したため、摂津国方面からの補給路は再び断たれ、さらに6月には波多野兄弟が籠る丹波国八上城が織田方の明智光秀に攻略されるなど、三木城を取り巻く情勢は悪化する一方であった。

9月には、毛利勢と三木城の別所家が示し合わせ、秀吉方の平田砦を攻め、その隙に兵糧を城に運び込むという作戦を敢行したが失敗。

10月には、毛利家についていた備前国の宇喜多家が織田家に寝返ったことから、毛利家の本国安芸国播磨国の連絡が断ち切られてしまう。
毛利家の消極策が、完全に裏目に出てしまったのである。

11月には荒木村重有岡城もついに織田勢に落とされてしまい、三木城は完全に孤立した。

翌1580年1月、籠城から22ヶ月経過し、8000の籠る城内の兵糧が完全に底をついたことから、城主別所長治は、城内の全ての兵や婦人、子供の助命と引き換えに切腹することを決意した。
秀吉もこれを立派な心がけとして許し、酒肴を贈るなどした。

1月17日、別所長治やその一族の壮絶な自害とともに、三木城は開城となった。