家康を軽々と破った、武田騎馬軍団
三方ヶ原の戦みかたがはらのたたかい
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西暦 1572年
和暦 元亀3年12月
関連する場所  遠江国 三方ヶ原の戦場
 遠江国 浜松城
 三河国 野田城
略図
写真
三方ヶ原霊園にある古戦場の碑
(実際の戦場については特定されていない)
概要 ●信玄南下
元亀3年10月(1572年)に3万の軍勢を持って上洛戦を開始した武田信玄は、12月、徳川方の遠江国の要衝二俣城を攻め落とし、浜松以東を勢力下に組み入れた。

●浜松城
これに対して浜松城徳川家康は、同盟国である尾張国織田信長に応援を要請し、佐久間信盛滝川一益、平手汎秀、林道勝、水野信元ら3000の援軍を得た。

しかし信玄は浜松城にいた家康には目もくれず、浜名湖に突き出た堀江城を目指し、通りすぎて行った。

このとき浜松城には1万強しかいなかったが、徳川家康は負けるとわかっていても信玄を黙って通すのは恥であるとして、強引に追い討ちをかけた。

●追い討ち
家康は三方ヶ原の先の祝田の坂から攻め下れば、倍以上の武田軍相手でも勝算ありと考え武田勢を追ったのだが、信玄は坂を降りる直前、突如反転して徳川勢に向かって来た。
浜松城を無視したのは、家康を野戦に誘い出す戦術であった。

●家康退却
武田の魚鱗の陣(密集して攻撃するための陣形)に対し、鶴翼の陣(相手を包みこんで戦うための陣形)で望んだ家康だったが、多勢に無勢はどうにもならず、浜松城に向けて敗走した。

この際、家康はあまりの恐怖に馬鞍に脱糞した、という逸話も残っている。

家臣が身代わりになってくれたりしたことから、家康は何とか帰城できたが、織田家の平手汎秀が討ち死にし、徳川勢も1千の戦死者を出す大敗となった。

●その後の信玄
武田信玄はこの後三河国へ侵攻し1ヶ月かけて野田城を落とすが、そこで病気が悪化、進軍を止める。鉄砲傷を負いそれが元になったという説もある。

2月、信玄の本隊は甲斐国への帰路につくが、信玄は信濃国伊那郡、駒場で死亡する。