最後まで抵抗した島津家を服従させた
九州攻めきゅうしゅうぜめ
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
西暦 1587年
和暦 天正15年1月〜
略図
 
場所  九州
 肥前国 勝尾城   筑前国 岩屋城
 筑前国 立花城   筑前国 古処山城
 豊後国 津賀牟礼城   豊後国 栂牟礼城
 日向国 高城  GOOGLE MAP 日向国 根白坂の戦場
 日向国 都於郡城
 薩摩国 出水城   薩摩国 泰平寺 
概要 ●秀吉への訴え
豊前国豊後国筑前国を除く九州の中部から南部をほぼ勢力下に収め、九州の覇者として台頭してきた島津家に押された豊後国のキリシタン大名大友宗麟は、上洛し豊臣秀吉の臣下につき、島津家征伐を依頼した。

全国平定を進める豊臣秀吉には、願ってもない九州征伐の口実ができたわけである。

豊臣秀吉は、私闘を禁じる「惣無事令」を発令し島津家をけん制したが聞き入れられなかったことから、中国の毛利家や四国の長宗我部家に島津攻めを申しつけ、軍監として黒田官兵衛仙石秀久を派遣した。

●島津北上
あくまでも九州平定を目指す島津勢は、大軍を二手に分けて進軍。

●筑前方面軍
一隊は、島津忠長、伊集院忠棟が率いる2万で、筑後国から筑前国に入り、誘降に応じなかった筑紫広門の勝尾城を攻略、秋月種実の案内を受け大宰府を平定し、高橋紹運岩屋城を苦戦の末落城させた。
岩屋城の戦

その後、立花城攻めに苦戦していることろに毛利軍接近の報が入り、島津勢は薩摩国を目指して撤退した。

●豊後方面軍
もう一隊は、さらに二手に分けられた。

まず島津義弘率いる2万5千は肥後国から豊後国に入り、大友家傘下の豪族を味方に付けながら、入田宗和の津賀牟礼城に着陣した。
入田宗和は、父が二階崩れの変の際大友宗麟によって自害させられた恨みから、島津についたのである。

もう一手の島津家久は1万を率いて日向国から北上し豊後国に入り、これも大友傘下の柴田紹安を味方につけ、松尾山に着陣した。
その後島津家久は、佐伯惟定の栂牟礼城を攻めたが城は落ちなかった。

●戸次川の戦
秀吉の派遣した先遣部隊が、豊後国で島津勢と激戦となったが、(戸次川の戦)、長宗我部元親の嫡子長宗我部信親や十河存保を討たれてしまうという大敗を喫し、島津は豊後国を平定した。

●秀吉出陣
豊臣秀吉は1587年1月、20万の大軍を九州に向けて出陣させ、弟の豊臣秀長日向国方面の総大将とし、自らも肥後国方面から南下した。

●秀長、日向から薩摩へ
豊臣秀長日向国に侵攻し、山田有信の新納院高城を包囲すると、島津義弘はこれを救援に向かうが大敗(根白坂の戦)、都於郡城も落とした豊臣秀長薩摩国へと侵攻した。

●秀吉、筑紫から肥後へ
一方豊臣秀吉は、秋月種実の古処山城を包囲し、付城を築城し戦意を喪失させ攻略すると、肥前国島原の有馬晴信の誘降にも成功し、肥後国高田から出水城まで後退した島津忠辰を降伏させ、さらに南下し薩摩国の泰平寺に着陣した。

●降伏
秀吉の強さを甘く見ていたことを悟った島津義久は、5月、剃髪して(龍伯と名乗る)泰平寺の豊臣秀吉に降伏した。

この後も義久の弟、島津義弘らは秀吉に抵抗したが、義久の説得によりようやく降伏した。

島津は、薩摩国大隅国だけを安堵された。

豊後国大友義統に与えられ、父の大友宗麟にも日向国一国が与えられることになったが、宗麟はこれを辞退している。

また、筑前国秋月種実日向国高鍋へ3万石に減封の上、移封された。

これにより豊臣秀吉は、坂東、奥州を除く日本の大半を平定するに至った。