三好政権に復活をもたらした大戦
教興寺の戦きょうこうじのたたかい
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西暦 1562年
和暦 永禄5年5月19日
関連する場所  河内国 飯盛山城
 河内国 教興寺
略図
概要 ●久米田の戦の後
1562年3月の久米田の戦で、管領細川晴元、河内守護畠山高政、近江守護六角(義賢)承禎、安見直政、遊佐信教、根来衆らの連合軍は三好勢に勝利した。

その勢いのままに畠山高政は、三好長慶の居城、飯盛山城を包囲するとともに、周辺の支城を攻略し始めた。

久米田の戦に敗北し、弟の三好実休を失ったものの、畿内支配を易々とあきらめる三好長慶ではなく、支配下にある摂津国丹波国の国人衆を河内国へ呼び寄せていた。

そして4月15日、摂津国鳥飼に逃れていた長慶の嫡男、三好義興や松永久秀の元に、池田長正、伊丹親興、内藤宗勝、有馬村秀らが集まってきた。

●飯盛山城攻め
三好方の援軍到着の前に何としても蹴りをつけたい畠山高政は、17日に総攻撃を敢行するが、飯盛山城の守りは堅く、援軍を頼んでいた六角(義賢)承禎もなかなかやって来ないことから膠着状態となった。

畠山高政が城を落とせないまま5月に入ると、久米田の戦で破れ散り散りとなっていた三好勢が息を吹き返し、5万もの軍勢で飯盛山城救援に駆けつけてきた。
畠山高政はこれを迎撃するために城の包囲を解く。

●教興寺
そして両軍は、河内国高安の教興寺付近で対陣した。

この時点で三好勢はさらに増え6万の軍勢になっており、4万の畠山勢より優位にあったが、怖いのは雑賀衆や根来衆の鉄砲4千丁であった。先の久米田の戦で長慶の弟、三好実休はこの銃弾に倒れたのである。

5月19日早朝、鉄砲の使いにくい雨を待っていた三好勢の先鋒、三好政康が畠山勢に攻撃を開始、決戦の火蓋が切られ一進一退の攻防が続いた。

しかし、風雨の強まった昼過ぎ、紀伊国の有力武将で畠山方の湯川直光が討ち死にしたのをきっかけに雑賀衆が敗走し始め、戦局は三好勢に傾き、戦国時代の畿内における戦としては最大規模となった教興寺の戦は、夕方には勝負がついた。

●戦後
戦後、敗れた畠山高政紀伊国へ逃れた。
勢いのついた三好勢は畠山勢を追いながら大和国方面へ戦線を拡大していった。
また、京都にいた六角(義賢)承禎は6月2日に降伏、近江国へ帰っていった。

これにより三好長慶は、畿内を完全に取り戻したが、久米田の戦で弟の実休や有力家臣の多くを失った痛手は大きく、また、翌年には嫡男の三好義興が病死、翌々年には松永久秀の讒言を受け弟の安宅冬康を殺害したことなども災いし、精神に異常を来たし病死することになる。