総大将を討たれた三好勢の総崩れ
久米田の戦くめだのたたかい
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西暦 1562年
和暦 永禄5年3月
関連する場所  和泉国 貝吹山城
 和泉国 岸和田城
 山城国 勝軍山城
周辺図
概要 ●畿内の勢力争い
畿内における勢力争いは、1561年の三好政権の党首三好長慶と管領細川晴元の和睦により収まるかに見えた。
これは、将軍足利義輝からの薦めに応じたものであった。

しかし和睦とは名ばかりで、三好長慶は政権の維持拡大のために、細川晴元摂津国富田の普門寺城に幽閉してしまう。

●六角・畠山連合
細川晴元と縁戚関係にあり、晴元を8年間保護してきた近江国六角(義賢)承禎はこれを知り激怒、挙兵を決意するとともに、三好長慶のために河内国から追われていた、守護の畠山高政へ、共に立つよう呼びかけた。

7月、畠山高政は、安見宗房、遊佐信教、根来衆などを糾合した1万の兵で、三好方の和泉国岸和田城を包囲した。
岸和田城主の十河一存がこの年の4月に急死していたため、城方の戦力は低下しており、そこを狙ったのである。

また、六角(義賢)承禎山城国の勝軍山城に3千の兵を率いて着陣、京都に臨むと、三好長慶も勝軍山城への備えとして、嫡男三好義興の7千や松永久秀の7千を近隣の支城に派遣した。

●岸和田城への援軍
三好長慶は、手薄な岸和田城への援軍として、弟の三好実休三好長逸三好笑岩、三好政康、篠原長房ら7千の兵を向かわせたが、岸和田城が畠山勢に囲まれ近づくことができず、1里ほど東にある久米田寺そばの貝吹山城に陣を置いた。

●京都の攻防
11月、連合軍は攻撃に出る。
六角(義賢)承禎が勝軍山城から討って出て神楽岡を一時陥れるが、松永久秀の反撃を受け、重臣の永原重隆を討たれるなど大敗となり、城に逃げ戻った。(将軍地蔵山の戦)

●和泉の攻防
一方、岸和田の攻防も始まっていたが、貝吹山城の三好勢は畠山勢に攻められ劣勢となっていた。

●決戦
冬になっても局地的に小さな戦が繰り返されたが大局は動かず、本格的な激突は翌1562年3月に起こった。

三好勢の布陣する貝吹山城に、畠山勢が総攻撃をかけたのである。
しかい激闘が2時間にも及ぶ頃、畠山勢の先陣、安見宗房の部隊が崩れ出し、二陣の遊佐信教も攻撃を受け始め劣勢となった。

しかし三陣の湯川直光隊が春木川の上流に回りこんで、畠山勢の先陣に横槍を入れる作戦をとった。これを見た三好勢は、湯川直光の攻撃を防ぐために大軍を投入、そのために本陣が手薄になったところに、根来衆の鉄砲が火を噴き、大将の三好実休が討ち死にしてしまった。

総大将を討たれた三好勢は総崩れとなり、連合軍の追撃を受けながら堺へ逃亡して行った。

岸和田城主で三好長慶の弟、安宅冬康も、三好軍敗北の報を受け城を捨て本国の淡路国へ逃亡、河内国の高屋城も開城となった。

これにより畠山高政は、三好勢から和泉国河内国の南部を奪回した。