信長に頼られ家康に恐れられた水軍大将
九鬼嘉隆くき よしたか
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誕生 1542年(天文11年)
生誕地 志摩国
九鬼定隆
 
幼名  
元服名  
官名 大隈守
主な近親 正妻:咲(立石三河の娘)、後にしのぶ(鳥羽主水の娘)
子:九鬼成隆、九鬼徳隆、九鬼守隆
兄:九鬼浄隆(本家)
甥:九鬼澄隆(本家)
ゆかりの地  志摩国 田城城
 志摩国 旧鳥羽城(岩崎山)
 志摩国 鳥羽城
略歴 1542年 (1歳)
志摩国の地頭、九鬼定隆の次男として生まれる。

●孤立した海賊
1560年 (19歳)
志摩国の他の地頭(十二家)から、主城の田城城を攻められ孤立。

その最中に、兄で九鬼家当主の九鬼浄隆が病死。
浄隆の嫡男澄隆が家督相続し、嘉隆はそれを補佐することに。

●信長への接近
1568年 (27歳)
志摩国を追われ、織田信長から伊勢攻略を命じられていた滝川一益を頼り信長に拝謁、一益の与力となる。

●志摩国
1569年 (28歳)
織田信長の伊勢攻め(大河内城の戦)で水軍を率いて、伊勢国国司北畠具教の支城大淀城を落とすなど活躍したことから、志摩国一国を拝領し、織田家の水軍大将に。

橘氏の鳥羽砦を接収し、鳥羽城(旧鳥羽城)を築城。

1574年 (33歳)
第三次伊勢長島攻めでも、水軍を率いて活躍。

●本願寺・毛利との海戦
1576年 (35歳)
本願寺と組んだ毛利側の村上武吉率いる三島村上水軍と、摂津国木津川河口で海戦を行うが敗北。(第一次木津川の戦

1578年 (37歳)
再び木津川河口で再び村上武吉の水軍と戦うが、準備した6隻の鉄甲船で勝利。(第二次木津川の戦
その功から、志摩国に加えて摂津国の一部を加増される。

●秀吉への随身
1582年 (41歳)
信長死後は、羽柴(豊臣)秀吉に仕える。

甥で本家当主の九鬼澄隆を暗殺。

1585年 (44歳)
本城とすべく、鳥羽湾そばの小島に鳥羽城の築城を開始。

1587年 (46歳)
豊臣秀吉の九州征伐に従軍。

1590年 (49歳)
豊臣秀吉小田原城攻めにも従軍。

1592年 (51歳)
文禄の役(朝鮮出兵)にも、水軍を率いて旗艦日本丸で渡海するが、朝鮮水軍に敗北。

●鳥羽城
1594年 (53歳)
鳥羽城を築城し、居城に。

●隠居
1597年 (56歳)
隠居し、家督を子の守隆に譲る。

1600年 (59歳)
関ヶ原の戦では、子の守隆には東軍に与させ、自身は西軍方として鳥羽城に立て篭もる。

戦後、子の守隆が徳川家康に嘉隆の助命を嘆願し許されるも、その報せが届く前に自害。
死没 1600年11月17日(慶長5年10月12日) (享年59歳)
レクイエム 織田信長は、嘉隆の率いる水軍の威力を認め大いに頼った。

一方家康は、最終的に豊臣家を滅ぼそうと考えていたが、その際関ケ原のときのように嘉隆に自分に背かれると非常に困ることから、初めは許そうとはしなかった。
それほど、嘉隆率いる九鬼水軍は強かった。

甥の九鬼澄隆を暗殺した理由は定かではないが、九鬼家を簒奪するためだったという説が有力。