家康と秀吉の尾張における対峙
小牧・長久手の戦
こまきながくてのたたかい
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西暦 1584年
和暦 天正12年3月
略図
場所  尾張国 犬山城
 尾張国 小牧山城
 尾張国 岩崎城
 尾張国 小幡城
 尾張国 龍泉寺城
写真
長久手の戦場


勝入塚(池田恒興の戦死場所といわれる)


小牧山城
概要 ●信雄の不満
織田家筆頭家老の柴田勝家亡きあと、織田信長の後継者を自負する羽柴(豊臣)秀吉に従っていた信長の遺子織田信雄が、秀吉の台頭に脅威を感じ反抗した。

しかし織田信雄は、三家老、津川義冬(松ヶ島城主)、岡田重孝(星崎城主)、浅井長時(苅安賀城主)が秀吉と通じたという流言を信じ彼らを誅し、それが秀吉に信雄攻撃の口実を与えてしまう。
この流言は秀吉が流したといわれている。

●家康を頼る
信雄は徳川家康に応援を求め、信雄の居城、尾張国清洲城に兵を集結させるが、大垣城主の池田恒興により犬山城を奪われる。

秀吉側の森長可は、平野にポツンと突き出た戦力上の拠点、小牧山城の占拠を狙うが、家康側の酒井忠次榊原康政らの夜襲を受け敗走、小牧山は家康側が陣取った。

秀吉も犬山城に着陣し対峙するが、こう着状態が続く。

●岡崎中入り
そんな中、家康の本拠、三河国岡崎への中入り(隙をついて侵入・攻撃すること)を進言した池田恒興の案を承諾した秀吉は、甥の三好(豊臣)秀次を総大将に、池田恒興堀秀政森長可ら2万の軍勢を密かに進発させた。

しかしその情報を得た家康が、密かに追跡を開始した。

●白山林の戦
途上、尾張国岩崎城の丹羽氏重の挑発にのった、秀吉方先鋒池田恒興が城攻めに時間を費やしているうちに家康勢が追いつき、最後方にいた総大将三好(豊臣)秀次勢を散々に蹴散らす。(白山林の戦)

その後、両軍が激突、森長可や池田父子(池田恒興池田元助)が井伊直政ら徳川勢の鉄砲隊などによって討たれる。
勝利した徳川家康は小幡城に入城。

●実現しなかった直接対決
一方、家康と戦を交えようと長久手方面へ向かっていた羽柴(豊臣)秀吉は、日没のため小幡城のすぐそばにある龍泉寺城に入城した。そして家康勢が小幡城に入ったことを知ったが、夜襲はせず明朝攻撃することを決定。

しかし機転を利かせた家康は、夜陰に紛れて小幡城を出て小牧山城へ移動したため、直接対決には至らなかった。

その後家康は、信雄の清洲城へ退陣し、秀吉も兵を撤収した。

●戦の終結
半年後、羽柴(豊臣)秀吉は本領安堵の条件で織田信雄と単独講和を結んでしまう。
これにより戦の大義名分を失った徳川家康も秀吉と和解。
この時家康は、次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子に出す。

戦の内容では家康側の圧勝と呼べるが、結果的には秀吉方の勢力が大きく削減されることもなく、実力を確かめ合ったという程度に終わった。

秀吉にとっては、当面の大敵、徳川家康と姻戚関係を結べたこと、また、戦のきっかけになった織田信雄の織田家での地位が著しく低下したことから、天下取りへの道が確固たるものになった戦であった。