下総を拠点に幕府へ敵対した関東公方
古河公方こがくぼう
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関連する場所  下総国 古河御所
 下総国 古河城
概要 ●鎌倉府
室町幕府は、坂東(箱根以東)の支配のために鎌倉府を設置していた。
府の長官は鎌倉公方と呼ばれ、その下に関東管領という公方の補佐役も置かれた。
ちょうど幕府における、将軍(公方)と管領と同じである。

●永享の乱と結城合戦
初代鎌倉公方には、足利尊氏の二男、足利基氏が就き、その後も足利家から送り込まれたが、第四代公方の足利持氏のときに、永享の乱に発展した。

足利持氏の独裁政治に、関東管領を初め関東の諸豪が反発して起こった乱であり、初めは幕府の力により鎮圧されたが、持氏の専制は収まらず、幕府に従順な佐竹氏を圧し始めたことから、幕府や関東管領との対立悪化を招いた。

最終的には、幕府が派遣した大軍により鎮圧され、足利持氏は自害に追いこまれるが、その後も足利持氏方についていた諸豪が持氏の遺子、春王丸と安王丸を担いで下総国結城城を拠点に活動を始めるなど火種は消えず、1440年、これを関東管領代行の上杉清方が鎮圧した。(結城合戦)

●享徳の乱
1447年、鎌倉府が復活することになり、第五代鎌倉公方には、足利持氏の子、足利成氏が就いた。
関東管領である上杉憲忠は、不満を持つ小山氏、結城氏、宇都宮氏などの諸豪との関係改善の仲介役として、この新しい鎌倉公方に期待したが、父の持氏を殺された成氏の激しい恨みにより、1454年に暗殺されてしまう。
これにより享徳の乱が始まる。

すなわち、幕府は足利成氏の討伐と上杉氏への支援に駿河国の今川範忠を関東に派遣、鎌倉を制圧することに成功した。

●古河
鎌倉を失った足利成氏は、その後下総国古河御所を本拠に(その2年後古河城を修築し居城に)、幕府や関東管領と対立したことから、古河公方と呼ばれる。

古河公方は、その後、足利政氏、足利高基、足利晴氏足利義氏と五代続く。

1458年、幕府は正式な鎌倉公方として、足利政知を関東に派遣するが、古河公方に味方する勢力はあなどりがたいものがあり、政知は箱根の坂を超えられず伊豆国堀越(堀越御所)にとどまったことから、こちらは堀越公方と呼ばれる。

これより後、関東は、小山氏を初めとする関東の有力豪族が担ぐ古河公方方と、幕府、堀越公方、関東管領の両上杉家(山内・扇谷)とそれに従う豪族とによる対立構造を保つことになる。
考察 武家にとっての権威である幕府や鎌倉府が分裂すれば、それに従う諸豪の家中においても、どちらに従うべきかの意見の分裂は自然の流れであり、それが家督相続にも影響を及ぼすケースも多かった。

応仁の乱は、幕府という、自らは武力を待たない名ばかりの権威がなまじ存在したために泥沼化したと言えるが、関東においても同様の大乱が巻き起こったことは、すでに室町幕府の抱える矛盾が二進も三進もいかなくなっていたことを裏付けるものである。