両川のひとりとして毛利をささえた、元就の三男
小早川隆景こばやかわ たかかげ
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誕生 1533年(天文2年)
生誕地 安芸国 郡山
毛利元就
 
幼名 徳寿丸
元服名 小早川隆景
又四郎
官名 中務大輔、左衛門佐、侍従、参議、権中納言など
主な近親 兄:毛利隆元吉川元春
養子:小早川元総(毛利秀包)小早川秀秋(羽柴秀俊)
甥:毛利輝元
ゆかりの地  安芸国 木村城
 安芸国 高山城
 安芸国 新高山城
 備後国 三原城
 筑前国 名島城
略歴 ●毛利元就の三男
1533年 (1歳)
安芸国の小大名、毛利元就の三男として生まれる。

●小早川家の養子
1544年 (12歳)
竹原小早川家の養子に。木村城に入る。

1550年 (18歳)
本家の沼田小早川家の娘と結婚し家督を継ぐ。高山城主に。

1552年 (20歳)
新高山城を築城し、本拠に。

●水軍の大将
1555年 (23歳)
重臣乃美宗勝を使者に立て、村上武吉の水軍を味方につけ厳島の戦で活躍。実家の毛利氏に勝利をもたらす。

1561年 (29歳)
門司城の戦(豊前国)で、大友家に大勝。これにより毛利家は北九州に勢力を広げる。

1563年 (31歳)
本家当主の毛利隆元が急死。

本家は毛利輝元が継ぐが、元就がそれを後見することに。

1567年 (35歳)
備後国三原城を築城し移る。

1569年 (37歳)
筑前国博多の支配権をめぐり、大友宗麟と対立。(立花城の戦

尼子勝久出雲国を奪回される。

筑前国から撤退。

1570年 (38歳)
毛利元就の謀略が成功し出雲国の尼子家を降伏させ、毛利家は中国10ヶ国120万石の支配者に。

●毛利両川
1571年 (39歳)
毛利元就が死去。本家の毛利輝元の補佐役に。

●信長との対立
1576年 (45歳)
足利義昭求めに応じ、水軍を使って石山本願寺に兵糧を運び込み活躍。(第一次木津川の戦

1579年 (47歳)
実弟の大田元綱(小早川秀包)を養嗣子とし、小早川元総と改名させる。

1580年頃 (48歳)
織田信長の部将羽柴(豊臣)秀吉の中国進出に対し抵抗。

1582年 (50歳)
備中国高松城の攻防戦(秀吉の備中高松城の水攻め)の最中、本能寺の変が起こるが、それを知らないまま羽柴(豊臣)秀吉と和睦。(交渉役は安国寺恵瓊

和睦後織田信長の死を知った兄吉川元春が秀吉を追うことを主張するが、交わしたばかりの誓詞を破ることも、信長の死に乗ずることも卑怯である主張したことから、追い討ちせず。

このことで、のちのち羽柴(豊臣)秀吉から賞賛され厚遇されることになる。

●秀吉の臣下
1584年 (52歳)
秀吉の臣下となり、養嗣子の小早川元総(秀包)を人質として大坂の秀吉に送る。

1585年 (53歳)
秀吉の四国攻めでは伊予国河野通直を降伏させるなど貢献。
戦後は伊予国一国を拝領。

1587年 (55歳)
秀吉の九州攻めでも貢献。戦後、筑前国筑後国肥後国の一部、合計37万1千石に転封。筑前国名島城主となり、城を大改修。

1592年 (60歳)
朝鮮への侵攻(文禄の役)に参加し、貢献。

●五大老
1593年 (61歳)
五大老のひとりに。
秀吉の養子羽柴秀俊(小早川秀秋)を養嗣子として迎え、秀秋と名乗らせる。
養子の小早川元総(毛利秀包)は廃嫡し、別家を立てさせる。

●隠居
1595年 (63歳)
家督を養子の小早川秀秋に譲り、三原城に隠居。
秀吉から5万石の隠居料を拝領。

1597年 (65歳)
三原城で死没。
死没 1597年(慶長2年)6月 (享年65歳)
レクイエム 秀吉の軍師黒田官兵衛から、「なぜいつも状況判断が的確なのか」と尋ねられた際、「私は黒田殿のように勘が鋭くない凡将なので、よく考えた上で判断し行動しますが、貴方は勘が鋭いので素早く判断し行動します。それであなたは私よりも過ちを多くおこすのです」と返事した。

本家当主の毛利隆元が急死したあと、毛利の両川(吉川・小早川)の片翼(瀬戸内海・山陽道)を担い、中国制覇に大きく貢献した名将。

秀吉の甥、羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子にしたのは、秀吉が秀俊を本家の毛利家の養子にしようとしていたことを知り、その阻止のため自ら申し入れた結果である。