伊東、島津による九州の桶狭間
木崎原の戦きざきばるのたたかい
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西暦 1572年6月14日
和暦 元亀3年5月4日
周辺図
場所 GOOGLE MAP 大隅国 高山城
 日向国 小林城
 日向国 飯野城
 日向国 加久藤城
 日向国 木崎原の戦場 (宮崎県えびの市池島442付近)
概要 ●島津家・肝付家・伊東家
天文8年(1539年)、薩摩国の守護、島津勝久を攻めて国主の座についた伊作(島津貴久)は、晩年大隅国の平定を志していたが元亀2年(1571年)に死去し、嫡男の島津義久が跡を継いだ。

貴久の死を好機ととらえた大隅国高山城主、肝付兼亮は、これまでの劣勢を挽回すべく、元亀3年(1572年)に島津領への進攻を開始、これを知った日向国伊東義祐も長年敵対してきた島津家を一挙に弱体化すべく出陣を決意、肥後国人吉城主の相良義陽に援軍を要請、快諾を得た。

●伊東氏動く
伊東義祐は霧島山の北麓にある島津家への抑え、小林城に入ると、5月3日の夜、伊東裕安を大将とした3000の軍勢で城から出陣、未明に島津義久の弟、島津義弘の居城、飯野城の南半里にある妙見原に着くと兵を2つに分け、一隊を飯野城への抑えに残し、伊東祐信、伊東又次郎が率いるもう一隊は島津義弘の妻子のいる加久藤城攻めのため西へ向かい、城内への挑発のため加久藤城下を焼き討ちした。

●加久藤城攻め
加久藤城にはわずか50の兵しかいなかったが、間者からの情報で伊東勢の動きを把握していた島津義弘は、西5里(20q)にある大口城の新納忠元へ敵襲を知らせて、手勢から60を割いて加久藤城の援軍に向かわせ、自らは130の兵を率いて飯野城から出陣、飯野城と加久藤城の間にある二八坂に着陣した。

一方、加久藤城の搦め手から攻城を開始した伊東祐信、伊東又次郎だったが、夜間だったことや地理に不慣れなこともあって苦戦、城将の川上忠智らの反撃と島津義弘が派遣した援軍の攻撃を受け大敗、退却した。

また、伊東勢を助けるべく到来した相良義陽の援軍500は、島津義弘が太河平に立ち並べた多くの幟を見つけると戦意を喪失、そのまま人吉へ戻ってしまった。

●池島川
加久藤城攻めを一旦あきらめた伊東勢は池島川の河原で休息、人吉から相良義陽の援軍が到着するのを待つこととなった。蒸し暑さのため多くの兵は水浴びを行ったりしたが、この情報を間者から得た島津義弘は、伊東勢の10分の1に満たない兵を率いて突撃を開始、敵将の伊東祐信を一騎打ちで討ち果たすなど大勝を得て兵を引いた。(異説あり)

大将を失った伊東勢は本隊と合流すると、南の山間部を抜けて高原城まで戻ることとしたが、途中の白鳥山を登ったところで突如陣太鼓や陣鐘が鳴り響き、数多くの幟旗が翻った。これは白鳥神社の座主や付近の農民300であったのだが、島津の援軍が伏せてあったのかとあわてる伊東勢は混乱、山を降りて来た道を引き返し始めたところを南下してきた島津義弘の軍勢と鉢合わせとなった。

義弘が率いていたのはわずか130の兵だったものの、味方の合流まで敵勢を足止めさせようと十倍以上の伊東勢に突撃するが当然苦戦となり、敗走を始めた。これを追う伊東勢。

●木崎原
島津義弘は池鳥川と川内川に挟まれた木崎原まで戻ると、駆けつけてきた加久藤城の城兵を合流させ体勢を整えた。

追ってきた伊東勢は、島津勢の立て直しがあまりにも突然だったため虚を付かれる形となった上、背後から鎌田政年勢に攻められ、さらには伏兵の五代友喜勢からの急襲を受けたことで大勢が決定した。

伊東祐安の嫡子、伊東祐次と祐安の弟、伊東右衛門は高原城への退却途上、戦場へ向かってきた新納忠元と遭遇、交戦するが討ち死にとなった。

●伊東氏の崩壊
この戦により伊東家は一門衆5人をはじめ1000名近くの将兵を失い、没落へと向かうことになる。