両川のひとりとして毛利をささえた、元就の二男
吉川元春きっかわ もとはる
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誕生 1530年(享禄3年)
生誕地 安芸国 郡山
実父:毛利元就、養父:吉川興経
妙玖
幼名 松寿丸
元服名 毛利元春
官名 治部少輔、駿河守
主な近親 正妻:新庄局(熊谷信直の娘)
兄:毛利隆元
弟:小早川隆景小早川元総(毛利秀包)など
甥:毛利輝元
子:吉川元長吉川広家など
ゆかりの地  安芸国 小倉山城
 安芸国 日野山城
 石見国 石見銀山
略歴 ●毛利家
1530年 (1歳)
中国で勢力を伸ばしていた毛利元就の次男に生まれる。

●吉川家
1547年 (18歳)
母の実家である吉川興経の養子に。

熊谷信直の娘と結婚。

1550年 (21歳)
父、毛利元就が強制的に元春の義父吉川興経を隠居させ、元春に吉川家を相続させる。

吉川家の居城、小倉山城に入城。

日野山城を築き居城に。

毛利元就は、遺恨を残さぬように、吉川興経とその息子を殺害。

1555年 (26歳)
厳島の戦で勝利。

●尼子家との対立
1556年 (27歳)
この頃、石見国へ進出した出雲国の尼子家と、石見銀山の支配権を巡り対立。

1563年 (34歳)
本家当主で兄の毛利隆元が急死。本家は毛利輝元が継ぐが、毛利元就がそれを後見することに。

1566年 (37歳)
第二次月山富田城の戦月山富田城の尼子家を滅亡させ、出雲国は毛利家の支配下に。

1569年 (40歳)
筑前国博多の支配権をめぐり、大友宗麟と対立。(立花城の戦

尼子勝久出雲国を奪回される。

九州から撤退。

1570年 (41歳)
毛利元就の謀略が成功し尼子家を降伏させ、毛利家は中国10ヶ国120万石の支配者に。

●毛利両川
1571年 (42歳)
毛利元就が死去。弟の小早川隆景とともに本家毛利輝元の補佐役に。

●織田との対立
1578年 (49歳)
織田氏の部将羽柴(豊臣)秀吉の中国攻略に対し抵抗。

上月城の戦で、織田氏の支援を受けた尼子家に勝利。

1582年 (53歳)
羽柴(豊臣)秀吉備中高松城の水攻めの最中、本能寺の変が起こるが知らないまま秀吉と和睦。(交渉役は安国寺恵瓊

和睦後織田信長の死を知るも、弟の小早川隆景が「取り交わしたばかりの誓詞を破って秀吉を追うことや、信長の死に乗ずることは卑怯だ」と主張したことから、追い討ちせず。

●隠居
1584年 (55歳)
羽柴(豊臣)秀吉の臣下につく際、それを潔しとせず隠居。
息子の吉川元長に家督を譲る。

1586年 (57歳)
元長とともに秀吉の九州攻めに参陣するが、途上、豊前国小倉城で病死。
死没 1586年(天正14年) (享年57歳)
レクイエム 政略結婚した熊谷信直の娘は醜女(しこめ)だったと言われているが、夫婦仲はよく、吉川元長吉川広家は、この正室の子。

本家当主の毛利隆元が急死したあと、毛利の両川(吉川・小早川)の片翼(山陰道)を担い、中国制覇に大きく貢献した名将。