秀吉の激怒で即決した、2度目の朝鮮攻め
慶長の役けいちょうのえき
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西暦 1597年〜1598年
和暦 慶長2年 9月〜慶長3年 8月
略図
場所  肥前国 名護屋城
概要 ●講和失敗
文禄の役が自然休戦となった1593年8月から3年、明との和議は決裂した。

明の使節、沈惟敬と小西行長が講和を早く成立させるために共謀し、明には日本が降伏したと報告、また秀吉には明が降伏したと報告したのだが、それが1596年9月大坂城での秀吉と明の使節との会見で発覚し豊臣秀吉は激怒、再度の朝鮮出兵を命じた。
これが、慶長の役(第二次朝鮮出兵)である。

総勢14万人超える陣容で、先鋒は文禄の役同様に、小西行長加藤清正で、釜山周辺に次々と上陸した。

●漆川梁沖の海戦
朝鮮軍は水軍の力で日本軍を押さえ込もうとするが、李舜臣が失脚して水軍自体が弱体化していた。李舜臣の後を任された元均だったが、7月16日、巨済島沖の漆川梁で停泊中、日本軍の急襲を受け壊滅的な大敗を喫した。
この漆川梁沖の海戦に当たった日本の武将は、藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明といった水軍と、島津義弘小西行長といった陸軍であった。

●全羅道への進撃
朝鮮水軍に大勝し制海権を完全に握った日本軍は、二手に分かれて半島を進軍し、8月に入ると加藤清正ら右軍が黄石山城を、宇喜多秀家ら左軍が南原城を短期間で攻略する勢いを見せた。
この朝鮮半島南部の2城は、朝鮮・明の第一線に当たっていたため、日本軍の志気は高まった。
そして日本軍は全羅道の首都でもある北部の全州に迫ると、全州城にいた明軍は城を捨てて逃亡、8月19日、全州は日本軍が占領した。

●稷山の戦
勢いにのる日本軍に対し、朝鮮側は首都漢城からの撤退も一時視野に入れたが、抗戦を決めると漢城から南へ進軍、9月8日には忠清道の稷山で明軍と黒田長政の隊が遭遇戦を展開、これを知った毛利秀元が援軍に駆けつけ明軍を水原まで退けた。

●水軍
漆川梁沖の海戦で大打撃を蒙った朝鮮軍は、李舜臣を再び水軍の長に起用し、鳴梁海峡で9月17日日本の水軍に勝利するが、半島の南西端、右水営を日本の陸上部隊に占領されるなど形勢は悪化、李舜臣は全羅道の北部まで退却、全羅道の海岸線は日本軍が占領した。

●進軍停止と築城
以上、日本軍は、朝鮮半島の南東部慶尚道、南西部全羅道、その北の忠清道、さらには首都漢城のある京畿道へ迫る勢いを見せたが、当初の目的である全羅道と忠清道の制圧が達成されたことから進軍を停止、慶尚道や全羅道の沿岸部に築城途上のままであった城砦の完成を目指した。

●蔚山城の戦
12月22日、半島南東端の蔚山城(慶尚道)を築城中の日本軍に対して、城砦の完成前に打撃を与えるべく明軍、朝鮮軍、合計5万7千の大軍が総攻撃を仕掛けてきた。
しかし城に入った加藤清正浅野幸長らが善戦したため、連合軍は攻城戦から包囲戦に切り替えた。
城内に備蓄されていた兵糧はごくわずかであったことから、日本軍はたちまちに苦境に陥り壊滅寸前となるが、鍋島直茂蜂須賀家政毛利秀元小早川秀秋黒田長政長宗我部元親毛利勝永らが援軍に駆けつけると、志気のあがった城兵たちも奮戦、敵勢約2万に損害を与える大勝となった。

連合軍は、慶州へ退却を開始するが、そこに吉川広家らを先鋒とする追撃部隊が襲い掛かり、最終的には1万以上の敵勢を討つという大勝となった。

●第二次蔚山城の戦
蔚山城の戦で大敗した明軍は体制を立て直すと、約10万の大軍を朝鮮半島に送り込み、8月、4方面から南下し日本勢の駆逐戦に入った。

東路軍は約3万の軍勢で、再び加藤清正の蔚山城を攻めるが、築城なった蔚山城は落ちなかった。

●泗川の戦
また、明軍、朝鮮軍合計20万の中路軍は、慶尚道の南西端の泗川城を攻めるが、逆に島津義弘の地雷や大砲、そして島津得意の伏兵を駆使した戦術により大敗、一説には3万もの兵が討たれたという。

●順天城の戦
全羅道の順天城へは、明軍、朝鮮軍合計約6万が攻略に向かった。
連合軍は9月18日に虚偽の和睦を申し入れ、城主の小西行長を生け捕ろうとするが作戦ミスにより失敗、攻城戦が始まった。

連合軍は攻城用の道具を多数作り、10月2日に総攻撃を仕掛けるが、日本軍の鉄砲による迎撃で損害は増大、攻城用の道具も城を討って出た日本軍に焼かれるなど、作戦は思うようにいかなかった。
連合軍は、水軍による攻撃も行い、戦は6日まで続いたが、大きな損害を出した連合軍は10月7日から撤退を開始した。

●秀吉の死と撤退命令
豊臣秀吉の8月に死去により、五大老は朝鮮半島にいる全軍に対し帰国命令を発した。これが10月15日。

●露梁海峡の戦
これを受けて朝鮮軍との和議に成功した小西行長が、連合軍の妨害にあり孤立、島津義弘立花宗茂らは水軍を編成しこの救助に向い、11月18日、泗川と順天の間にある露梁海峡で敵の水軍と遭遇戦となる。
海戦は激戦となったが、連合軍の勝利に終わるが、李舜臣が戦死するなど連合軍も打撃を蒙った。
小西行長はこの隙に順天から脱出に成功した。

●釜山への終結と帰国
日本軍は、その後次々に釜山に集結、11月の後半からは日本への帰国が始まり、12月までに撤退は完了した。