信玄と謙信の五度に渡る対峙
川中島の戦かわなかじまのたたかい
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西暦 1553年〜1564年
和暦 天正22年〜永禄7年
写真
川中島古戦場 信玄・謙信の銅像(第四次合戦時)
関連する場所  信濃国 川中島の戦場(八幡原)(第四次)
 信濃国 葛尾城
 信濃国 旭山城
 信濃国 葛山城
 信濃国 横山城
 信濃国 飯山城
 信濃国 海津城(松代城)
略図
第四次
略図
概要 概要
甲斐国武田信玄と、越後国上杉謙信による、信濃国の犀川と信濃川が合流する河川敷を中心に行われた5度に渡る合戦。最後まで決着はつかなかった。

北信濃に進出した武田信玄に対して、上杉謙信越後国の防衛をはかった戦いである。

第一次川中島の戦

1553年
武田晴信(信玄)に北信濃の葛尾城から追われた村上義清や、中信濃の林城を追われた信濃国守護小笠原長時からの要請を受け、長尾景虎(上杉謙信)が加勢しこの地で信玄と戦った。

4月、両雄が初対決。(八幡の戦)
勝負は葛尾城を奪い返した謙信の勝利といえる。村上義清は旧領を取り戻した。

7月、甲斐国へ帰還した武田晴信(信玄)は即再出馬し、佐久へ侵攻。

8月には、村上義清の籠る塩田城を攻め落とし越後国へ追った。
塩田城には、飯富虎昌を城代として入城させ、対上杉の前線基地とした。

それに対し長尾景虎(上杉謙信)春日山城から再出馬し、更級の布施で武田勢と戦い(布施の戦)、9月には武田方の荒砥城を攻め落とすなどの攻防が行われたが、最終的には両軍が兵を退いた。
農民兵が中心の両軍に、刈入れの季節が近づいていたためである。

1554年
7月、北条家、今川家と三国同盟を結び後顧の憂いを排除した武田晴信(信玄)は、信濃国の平定に注力できるようになった。

8月、武田晴信(信玄)は佐久に進出し小諸城を拠点に活動を開始する一方、南信濃の伊那も攻め平定し南部の憂いを取り除くくことができたため、木曽の平定も視野に入れた。

第二次川中島の戦

1555年
4月、武田晴信(信玄)は前年に平定した安曇、筑摩から、さらに北部の善光寺平の制圧に向けて出兵。
先に武田晴信(信玄)は、善光寺の別当である栗田鶴寿を武田方に寝返らせることに成功していたのである。

7月、これに対して長尾景虎(上杉謙信)も国境を超え横山城に入城すると、武田方についた栗田氏の籠る旭山城への押さえとして、裾花川の対岸に葛山城を築く。
信玄は更級の大堀に布陣し、旭山城を援助。

出兵からの対陣期間が200日にも及んだ閏10月、今川義元の調停を受け、所領を元の領主に戻すことを条件に和睦が成立。
これにより川中島の約半分は、上杉勢のものとなった。(犀川の戦)

その後信玄は木曽を制圧し、川中島以北を除く信濃国をほぼ平定。

第三次川中島の戦

1557年
1月、雪で動けない長尾景虎(上杉謙信)に対し武田晴信(信玄)は、馬場信春に命じ善光寺そばの葛山城を攻めさせ、2月に攻め落とす。これにより善光寺平の中心部を入手。さらに北進を企てた。

長尾景虎(上杉謙信)も雪解けを待って3月に出陣、善光寺裏の横山城に入城。さらに破却されていた旭山城を修築し本陣とした。

その後、長尾景虎(上杉謙信)飯山城まで後退すると、武田晴信(信玄)は安曇の平倉城(小谷城)を攻略し、糸井川方面からの越後勢の進出に備えた。

水内の上野原で両軍の戦もあったが、9月になって上杉勢が兵を退いたことから同地の支配権は武田勢が握った。(上野原の戦)

1560年
武田晴信(信玄)長尾景虎(上杉謙信)への備えに、川中島を望む松代に海津城(松代城)を築城し、小山田虎満、原与惣左衛門、市川等長などを入れた。

第四次川中島の戦
川中島の戦の中で、最大の戦。(上部略図を参照)

1561年
関東への出兵を行うためにどうしても武田軍を叩いておく必要があった上杉虎(謙信)は、8月川中島の南の妻女山に1万8千の軍勢を率いて着陣、一方の武田軍2万は千曲川を挟んだ茶臼山を本拠として対陣した。

さらに武田軍は、上杉軍の眼下を通過して海津城(松代城)に入り対峙したが、こう着状態が続く。

先に仕掛けたのは武田軍だった。これは膠着状態が長引けば、武田に下った北信濃の豪族たちが上杉に寝返る恐れがあったためである。

武田晴信(信玄)は、夜陰にまぎれ全軍2万の内1万2千を別働隊として妻女山の後方から上杉軍を急襲させ、山から下りてくる上杉軍を残り8千がたたくという、啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)をとることにした。これは軍師山本勘助の進言によると言われる。

急襲部隊に選ばれたのは、飯富虎昌内藤昌豊高坂昌信馬場信房(信春)、小山田信行、真田幸隆など10隊、1万2千。

しかし上杉虎(謙信)は、密かに全軍を下山させ大きく迂回し雨宮の渡で千曲川を渡り、海津城(松代城)のそば八幡原に陣を敷いた。

これは、その夜の武田軍の炊飯の煙の立ち方がいつもと違うことに気づいた上杉方の宇佐美定満が、武田の戦法を察知したためであると言われている。

翌朝、川霧の晴れた八幡原の武田軍本隊8千の眼前に、上杉の全軍2万が布陣しており、激戦が始まる。

不意をつかれた武田軍は鶴翼の陣を敷いて応戦するが、数に勝る上杉軍は本隊を中心に各部隊を円形に布陣させた車懸の陣で突撃を繰り返し、武田勢を圧倒してゆく。
武田軍はこの戦で、信玄の実弟武田信繁諸角昌清山本勘助ら有力武将を失う。

その後、武田の別働隊1万2千がやっと戦場に駆けつけたことから形勢は逆転、不利を悟った上杉軍は甘粕景持に殿軍を任せ、犀川の向こうへ兵を引き始めた。

だが、どうしても勝負をつけたい上杉虎(謙信)は、床几にいた武田信玄に騎馬上から直接襲い掛かったといわれている。

最終的に双方合計7千の死者を出す、史上まれに見る大規模な戦いとなった。(八幡原の戦)

この後、川中島周辺のほとんどの武将が武田方に降った。

第五次川中島の戦

1564年
3月、上洛中の上杉輝虎(謙信)の留守を狙って越後国に侵入するなど、武田信玄の北進は着々と遂行されたが、7月、上杉虎(謙信)は善光寺平に出兵し、川中島に着陣した。

これに対し武田信玄は8月、更級の塩崎に陣を構え対峙した。(塩崎の戦)
この対峙は60日間ほど続いたが、上杉虎(謙信)は兵を飯山城まで退かせた。

これを最後に、川中島での両軍の対峙は終結、武田信玄が北信濃の大部分を掌握することになった