陣中で虎を退治した、秀吉子飼の武断派
加藤清正かとう きよまさ
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
画像
誕生 1562年7月25日(永禄5年6月24日)
生誕地 尾張国 中村
加藤清忠
伊都(豊臣秀吉室ねね=北政所の従妹)
幼名 虎之助
 
官名 肥後守、主計頭、侍従
近親など 正妻:正応院・徳川家康の養女
子:加藤忠広など
ゆかりの地  肥後国 熊本城
略歴 1562年 (1歳)
尾張国中村の刀鍛冶、加藤清忠の次男として生まれる。

●秀吉の小姓
1573年 (12歳)
母が高台院(ねね)の従妹だったことから、羽柴(豊臣)秀吉の小姓として仕える。

●賤ヶ岳七本槍
1583年 (22歳)
賤ヶ岳の戦で貢献し、賤ヶ岳七本槍のひとりとして名を上げる。

●肥後国半国
1588年 (27歳)
肥後国半国(熊本)の領主となり、隈本(熊本)城主に。(19万5千石)

1592年 (31歳)
文禄の役(朝鮮出兵)で朝鮮へ渡海し活躍。しかし朝鮮との和睦方法について石田三成と意見が合わず対立、三成の讒言によって秀吉からも疎まれるようになり、帰国後は蟄居。
このときより、三成をひどく恨むように。

1596年 (35歳)
伏見大地震の際、手勢300名で秀吉の元に真っ先に駆けつけた忠義により、蟄居を解かれる。

1597年 (36歳)
慶長の役(第二次朝鮮出兵)にも先鋒として出陣。

●三成との対立
1598年 (37歳)
秀吉が死ぬと帰国し、徳川家康に接近。

1599年 (38歳)
前田利家死後、福島正則らと石田三成暗殺を計画するが、家康に一喝され断念。

1600年 (39歳)
関ヶ原の戦では九州にいて家康の東軍に味方し、中国の毛利勢へのけん制役を果たす。
このため、隣の小西行長領も合わせ、肥後国一国の太守に。(52万石)

●熊本城主
隈本城を大改修。

1606年
隈本城を熊本城と改称。

1611年 (50歳)
浅野幸長とともに、家康と豊臣秀頼二条城での対面を仲介。

熊本城で病死。
レクイエム 秀吉子飼の武将の中では、福島正則とともに気の荒い人物であった。
また、身長は190p以上あったといわれる。

朝鮮の陣中を襲った虎を退治した逸話がある。

江戸幕府開府後は、豊臣恩顧の大名の筆頭であり、二条城での家康、秀頼の会見のお膳立てをするなど、豊臣家存続のために尽力した。

その直後の病死でもあり、徳川から暗殺されたという説もある。ちなみに、共に対面の仲介に尽力した浅野幸長も、2年後に38歳の若さで急死している。
死没 1611年8月2日(慶長16年6月24日) (享年50歳)