信長を驚愕させた浅井軍の裏切り | |
金ヶ崎の退き口かねがさきののきぐち | ![]() |
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西暦 | 1570年 |
和暦 | 元亀元年4月 |
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略図 | ![]() |
概要 | ●信長上洛 永禄11年(1568年)織田信長は、妹のお市の方を嫁がせて婚姻関係にあった北近江の浅井長政と協力しあい、南近江の六角承禎・義治父子を追って上洛を果たし、畿内から三好勢を追いたてた。(信長の上洛戦) ●朝倉征伐 その後の信長にとって目障りな存在は、越前国の朝倉義景であった。 朝倉義景は再三に渡る上洛命令や皇居の修繕命令を無視するなど、信長に対する服従を拒み続けていた。 信長は、滞在していた京都から3万の軍勢を率いて元亀元年(1570年)4月20日に出発した。命令に従わない若狭国の武藤友益を討つという名目であった。 その後、武藤友益を支援しているのは朝倉家であるということから、朝倉攻めに向かうことを宣言した信長は、琵琶湖の西岸を北上し若狭国に入ると、粟屋勝久の国吉城に入城、本陣を置いた。 ●金ヶ崎城 さらに越前国の妙顕寺に兵を進めた信長は、4月25日、26日の2日間で、越前国への入り口にある朝倉景恒の手筒山城と金ヶ崎城を攻略した。 緒戦の快勝を受け、木の芽峠を越えて越前国へ乱入する手はずを整えた信長にもたらされた急報は、義弟の浅井長政が突如反旗を翻したというものであった。 信長は初め、長政の謀反を信じなかったというが、物見から次々と届く情報は、どれも浅井謀反を裏付ける内容であった。 また一説には、 夫、長政の裏切りを知ったお市の方が、兄、信長に小豆入りの袋の両端をしばったものを陣中見舞いと称して送り、「袋の鼠」になることを気づかせたと言われている。 ●信長退却 浅井から後方をつかれては、遠征軍である信長勢の大敗は目に見えていることから、信長は、28日京へ向けての退却を開始した。 退却路は、危険な琵琶湖岸沿いではなく、朽木超え(のちの若狭街道・琵琶湖の西側の山道)が選ばれた。 この退却に際して信長は、ともに越前攻めに加わっていた同盟者の徳川家康にさえ、何の連絡もしなかったという説がある。それほど危機感を募らせていたということである。 退却戦で最も至難といわれる殿軍(しんがり)は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が名乗り出てつとめた。 日頃木下藤吉郎(豊臣秀吉)を、目端が利くだけのお調子者と蔑んでいた他の部将たちも、このとき藤吉郎を見直したという。 また、藤吉郎の与力となっていた山内一豊は、手筒山城攻めの際に顔に受けた重い槍傷を省みず殿軍に加わったことを藤吉郎から賞賛され、出世の糸口をつかんだ。(1573年の越前攻めの際のエピソードとの異説あり) ●朽木谷 信長の逃走途上にいる朽木谷の領主、朽木元綱は、元は浅井方の部将であったが、信長に随行した松永久秀の説得により味方となったことから、信長は無事通過することができた。 信長は、丸2日かけて30日に京都にたどり着いた。 ●信長狙撃 京都に戻った織田信長は、軍勢を整えるため岐阜に戻るが、その途上で六角承禎(義賢)の配下、杉谷善住坊に至近距離から狙撃されるが運良く命中を免れた。 2ヶ月後、信長は再び出陣、姉川の戦で浅井・朝倉勢に勝利する。 |