旧主今川家を滅亡に追い込んだ家康
掛川城の戦かけがわじょうのたたかい
トップページ 戦国年表 人物 合戦・出来事 国と郡 城・社寺 関連表 用語集 公開記録 参考文献 プロフィール・リンク メール
西暦 1569年
和暦 永禄12年5月
周辺図
関連する場所  遠江国 掛川城
 駿河国 今川館(後の駿府城
GOOGLE MAP 伊豆国(現在は駿河国) 戸倉城
写真
掛川城の再建天守
概要 ●掛川城
居城の今川館(後の駿府城)を武田信玄に攻められ(駿府攻め)、遠江国掛川城の家臣朝比奈泰朝の元に逃げ込んだ今川氏真は、翌1569年、南西(三河国)の徳川家、北(甲斐国)の武田家に対するために東(相模国)の北条家と結んだ。

しかしそれもつかの間、松平元康(徳川家康)から掛川城を包囲されることになった。
包囲は半年に及んだが、その間に、駿河国から遠江国まで武田信玄が侵入し始めていた。
これは、徳川は遠江国、武田は駿河国という約束を違えるもので、家康は今川家との攻防を早期に終結させなくてはならなくなり、和睦の道を考え始めた。

最終的な和睦は、今川家家臣の助命を条件に開城、武田家を駿河国から追ったあとは今川氏真が再び駿河国の国主に戻る、というものであった。

優勢の家康にとってはかなり譲歩した内容だとは思うが、老獪な家康のことである、この約束はあとになって簡単にもみ消せると考えていたに違いない。

●北条の元へ
今川氏真掛川城を出て、妻の実家である北条家を頼り、伊豆国の戸倉城に移った。

今川氏真は、北条氏政の子、国王丸(北条氏直)が成長したら駿河国を譲るとしたが、肝心の駿河国武田信玄にほぼ侵食されてしまったことから、実現しなかった。
その他 掛川城の開城時点で、駿河国守護としての今川家は事実上滅んだ。