戦国の始まりを告げる早雲の公方攻め
伊豆討入りいずうちいり
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西暦 1493年
和暦 明応2年5月
周辺図
関連する場所  伊豆国 堀越御所
 伊豆国 韮山城
写真
堀越御所

韮山城
概要 ●伊豆情勢
関東の南西端に位置する伊豆国は、堀越御所に拠点を置き堀越公方と呼ばれた足利政知の統治下にあった。

元はといえば、室町幕府に敵対した鎌倉(関東)公方(古河公方)に対抗するために京都から派遣された新公方であったが、古河公方の勢いが強いため関東に入ることができず伊豆国にとどまっていた。

●関東情勢
また、関東では、鎌倉公方の補佐役である関東管領の山内上杉家と、相模守護である扇谷上杉家が対立し、諸国の豪族たちもこの対立に巻き込まれていた。

そして伊豆国は、関東管領上杉定正の勢力下にあった。

●茶々丸のクーデター
堀越公方、足利政知が1491年に病死すると、後継者に指名されていた二男の潤童子とその生母を、異母兄で長男の茶々丸が殺害するという暴挙にでて、第二代堀越公方を名乗ったものの、家臣団の支持を得られず孤立していった。(豆州騒動)

●早雲
駿河国今川家の客将から興国寺城主となっていた伊勢新九郎(北条早雲)は、この騒動に付け入り伊豆国奪取を決意した。

早雲自らただの湯治客になりすまし、修善寺温泉で湯治をしつつ伊豆国の内情を探ったとも言われる。

早雲は主家の今川家に300の兵を借り受け、自らの兵200と合わせた500の兵で船に分乗、駿河湾を渡り西伊豆へ上陸すると、関東へ出兵していて手薄な堀越公方や関東管領方の隙をついて堀越御所を急襲、放火した。

不意をつかれた茶々丸は降伏し、2年後に伊豆国から追放され、その後武田家や山内上杉家を頼り伊豆国奪回を謀るが、1498年に甲斐国にて捕らえられ自害。

●四公六民
戦後、早雲は、御所そばに韮山城を築き居城とするとともに、伊豆国中に四公六民(当時は六公四民や七公三民が普通)という破格の税制を導入、さらには国中に流行していた病に対する手篤い看護を行うなど人心をつかみ、わずか一ヶ月ほどの短期間で伊豆を平定してしまった。
その他 戦国時代の幕開けとされる「伊豆討入り」は、十一代将軍、足利義澄の命によるものという説がある。足利義澄は庶兄の足利茶々丸によって母(円満院)を殺害されていることから、この説はかなり有力。

守護大名でもない小さな領主が、実力で一国を奪取したこの事件が、その後100年以上続く戦国時代の始まりとも言える。