籠城兵763名全員が玉砕した
岩屋城の戦いわやじょうのたたかい
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西暦 1586年
和暦 天正14年7月
略図
場所  筑前国 岩屋城
概要 ●島津北上
1584年、肥前国沖田畷の戦龍造寺隆信を討った島津家は、豊前国豊後国筑前国を除く九州の中部から南部をほぼ勢力下に収め、北九州の平定を急いでいた。
なぜなら全国の統一を目指す豊臣秀吉が動き出す前に、九州全土の支配という既成事実を作りたかったからである。

島津勢の勢いに、肥後国隈部親永、隈部親泰父子や、筑前国秋月種実が降伏、残る大勢力は豊後国のキリシタン大名大友宗麟だけであった。
この時点での宗麟の支配地は、豊後国のほか豊前国筑前国の一部となっていた。

●筑前へ
1586年、筑前国へ向かったのは島津忠長、伊集院忠棟が率いる3万であった。

島津勢はまず、筑後国筑紫広門の居城、肥前国勝尾城落城を目指したが苦戦を強いられた。
わずか千名の籠る勝尾城を落とすのに5日も費やし、しかも味方の損害が大きかった。
島津軍は各地の混成部隊であり、戦意が低かったためである。

勝尾城を落とした島津勢は、地元の秋月種実の案内を受け筑前国へ入ると大宰府を平定した。

●岩屋城の戦
島津軍の大軍は、大宰府の北にある岩屋城を包囲した。
岩屋城は標高410mの四天王山の南の中腹に築かれた要害で、大友宗麟最後の重臣で名将の高橋紹運が、わずか763名の兵とともに篭っていた。

島津忠長は、戦意の乏しい他国勢が当てにならないことから、島津勢が先頭に立って総攻撃を行うことを決定、総攻撃は7月14日に開始され、翌15日も行われた

しかしながら徹底抗戦を決意していた城兵の戦意は高く、城内からの猛攻により島津勢の損害は増えるばかりであった。

7月22日に、日向国から合流した新手とともに総攻撃が再開され、堀を埋め城壁を崩壊させることに成功した島津勢は城内への突入に成功、7月27日に高橋紹運以下全員を討ち死、自害させ、城は落城した。

しかし包囲から落城まで半月もかかったことや、すでに3千もの兵を失った島津勢の余力は乏しく、立花山城を攻めるが敗退、毛利軍接近の報を受け薩摩国を目指して撤退した。

この後豊臣秀吉九州攻めを受けることになる。