毛利家台頭のきっかけとなった奇襲戦
厳島の戦いつくしまのたたかい
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西暦 1555年
和暦 弘治元年10月
周辺図
関連する場所  安芸国 厳島
 安芸国 宮尾城
 安芸国 銀山城(かなやま)
 安芸国 己斐城
 安芸国 火立岩
写真
干潮時の厳島神社
概要 ●実権を握った陶晴賢
陶晴賢は、主君で周防国の太守大内義隆を謀略で倒し、大内義長大友宗麟の弟)を大内家当主に迎え実権を握っていた。

●毛利元就
一領主の身から安芸国一円に勢力を拡大していた吉田郡山城主、毛利元就も、実質的には陶晴賢が主導権を握った大内家の支配下にあったが、普段から元就に従順な嫡男毛利隆元が、主家を謀殺した陶晴賢からの離反を主張したことから、大内家に対立することになった。

●大内との対立
毛利勢は5月に吉田郡山城から出陣、安芸国の南部に連なる銀山城、己斐城、桜尾城、門山城といった大内家の支城を攻め落とし、押し寄せてきた大内方の先鋒7千を折敷畑山で向かえ討つと、その勢いでさらに南下、九州と畿内を結ぶ経済の重要拠点である厳島へ進出した。(折敷畑の戦)

●厳島の謀略
毛利元就は島内に宮尾城を築城し、以前大内家に属していた己斐直之を城代として入れるなど、陶晴賢への挑発を忘れなかった。

この段階において、陶晴賢の兵数は2万、対する毛利は4千というものだったが、毛利はその劣勢を補う戦略として厳島への進出を行ったのである。

毛利元就は、家老の桂元澄を2重スパイとして陶方に送りこみ、陶晴賢に厳島を攻めるよう言葉巧みに誘導した。
さらには、元就が厳島に宮尾城を築城したのは失敗であったと後悔している、という流言を流すなど、徹底的な謀略を行った。

これらの情報を元に、陶晴賢は2万の大軍で周防国岩国から厳島へ押し渡った。

宮尾城には、己斐直之が500の手勢とともにいたが、陶晴賢は城の南、塔ノ岡に本陣を置き、早速城攻めを始めた。

●元就、暴風雨の中を出陣
この情報に毛利元就は策略通りであると喜び、吉田郡山城を進発、吉川元春勢と合流、島の対岸の火立岩に着陣し、村上武吉率いる村上水軍の到着を待ち、夜間の暴風雨の中、厳島を目指した。

狭い島内に敵を封じ込め、海と陸からの挟み撃ちによって勝利する作戦であった。

毛利元就毛利隆元吉川元春らの主力は、宮尾城攻めを行っている陶晴賢の陣の背後に進出、小早川隆景は厳島神社の正面から上陸し、宮尾城勢と合流、陶の本陣を目指した。

翌未明、突如総攻撃を開始した毛利勢に不意をつかれた陶晴賢勢は、たちまち混乱し敗走。
陶晴賢は味方の船が停泊している大元浦へ逃げ延びようとしたが、味方船団はすでに毛利と村上の水軍に破られていたことから、島からの脱出が不可能となり西岸にて自害。

戦いはあっけなく毛利の完勝に終わった。

この戦の勝利が、毛利家が10ヶ国の太守となるきっかけになった。
その他