日向四十八城の主
伊東義祐いとう よしすけ
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誕生 1512年(永正9年)
生誕地 日向国
伊東尹祐
福永氏
虎熊丸(幼名)、六郎五郎、祐清、義祐
官名 従四位下、大膳大夫など
近親など 兄:伊東祐充
弟:伊東祐吉
子:歓虎丸、伊東祐兵など
ゆかりの地  日向国 都於郡城
 日向国 佐土原城(田島城・鶴松城)
 日向国 宮崎城
略歴
●日向
1512年 1歳 日向国都於郡城主、伊東尹祐の子として生まれる
1533年 22歳 兄で当主の伊東祐充が病死
叔父の伊東祐武が、当主の座を狙い反乱をを起こすが失敗
伊東祐武の反乱鎮圧に貢献した重臣長倉祐省らの推薦により、弟の伊東祐吉が当主となったことから出家
●家督相続
1536年 25歳 当主で弟の伊東祐吉が病死。これにより還俗し、伊東祐清と名乗り、伊東家を相続
本城の都於郡城が消失していたことから、佐土原城に入る
1537年 26歳 佐土原城が消失したことから、宮崎城に移る
従四位下に叙せられ、将軍足利義晴から偏諱を受け(一字を賜り)、義祐と名乗る
1543年 32歳 佐土原城を再建し、本城とする
●島津との敵対と日向国獲得
1569年 58歳 日向国南部の飫肥を本拠とする豊洲島津の島津忠親と争い勝利し、日向国をほぼ制圧。国内に48の支城を構え、伊東家の全盛時代をもたらす
二男で後継者の伊東義益が病死
●伊東崩れ
1572年 61歳 島津家の加久藤城を攻めるが、重臣5人を失うなどの大敗。(木崎原の戦
1576年 65歳 島津家に高原城などの支城を攻略される
1577年 66歳 島津家に、南部の拠点である櫛間城を攻略され、飫肥城も包囲される。それに呼応した国内北部、門川の土持家が敵対
嫡孫、伊東義賢に家督を譲る
縁戚関係のあった野尻城の福永家が島津家に寝返ったことから、内山城の野村家や紙屋城の米良家も離反
●豊後へ
島津家の圧迫に耐えられなくなり、大友宗麟を頼り豊後国を目指す
豊後国への途上にある財部城の落合家も敵対したため、吹雪の中山越えで豊後国へ入る
大友宗麟日向国回復への尽力を承知し、日向国をキリスト教の王国にする野望を持つ
1578年 67歳 大友宗麟が、土持家を攻め滅ぼす
しかし、耳川の戦大友宗麟島津義久に大敗
●伊予へ
これをきっかけに大友家との関係が悪化し、子の伊東祐兵らとともに密かに豊後国を出て伊予国の河野家を頼って四国へ渡る
1585年 74歳 中国地方を放浪途中、病を得て、堺で死没
死没 1585年8月29日(天正13年8月5日) (享年74歳)
レクイエム 日向国一国を制圧し、佐土原の城下町を九州の小京都と呼ばれるまでに整備するなど、伊東氏の全盛期を創出したが、その京風文化にこだわる余り国内政治を省みなくなったことが没落の原因となった。

大友宗麟を頼っての豊後へ吹雪の強行軍の中には、後に天正遣欧少年使節の一人となる伊東マンショも含まれていた。

子の伊東祐兵は、後に豊臣秀吉の家臣に取り立てられ、旧領、飫肥などを与えられ大名に復帰する。