実弟勘十郎に背かれた信長
稲生の戦いのおのたたかい
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西暦 1556年
和暦 弘治2年8月
関連する場所  尾張国 稲生の戦場(このあたり?)
 尾張国 清洲城
 尾張国 末森城
周辺図
概要 ●尾張の情勢
1551年に家督を相続した織田信長は、1555年に尾張国下四郡の守護代で、主筋の織田信友を攻め追放し、清洲城を手中にし居城にした。

上四郡の主城、岩倉城には相変わらず織田信安がおり、尾張国は2大勢力に分かれたままであったが、隣国の美濃国で政変が起こった。
義父で美濃国国主の斎藤道三が、息子の斎藤義龍に攻められ自害したのである。(長良川の戦
これにより信長と道三の同盟は自然消滅し、美濃国が敵に回ったわけで、当然信長は尾張国経営だけに注力できなくなった。
さらに上四郡の守護代、織田信安も斎藤義龍と結んで信長に敵対し始めた。
信長はにわかに2つの強敵を得てしまったのである。

●実弟勘十郎
そして、この機を逃さなかったのは、信長の実弟で末森城主の織田信行(勘十郎)とその取り巻きであった。

元々織田信秀の生前から、うつけ者の信長ではなく、実弟の信行を嫡子に、という声も多く、実母である土田御前でさえ信長の廃嫡を画策していたほどであった。

●反抗
織田信行をたきつけたのは、重臣の林通勝(佐渡)、林美作(通具)兄弟で、同じく信行の重臣柴田勝家らも巻き込んで信行に家督を継がせるべく公然と信長に敵対した。

具体的には林通勝が、信長の直轄地である篠木三郷を横領するなどの挑発行為を敢行したのが始まりと言われる。

●出兵
信行勢は、庄内川のほとりに信長が急遽築いた名塚の砦を攻めるべく、兵を差し向けた。

名塚の砦は、信長の家臣、佐久間大学が300の手兵で守っていたが、林通勝柴田勝家合計2700の兵に囲まれたものの、信長の命を忠実に守って打っては出ず、砦に籠り防戦に徹した。

1000の兵を率いて庄内川を渡り、夜明けに名塚に到着した織田信長は、佐久間大学の兵と合流し、信行勢と激突した。

兵数(1300対2700)において圧倒的な不利の信長勢は緒戦押され気味だったものの、後半は持ち前のねばりを見せ、林美作(通具)を自ら討ち取り気勢をあげ、最終的には450もの敵首をあげる勝利となった。

末森城に逃げ戻った織田信行勢は信長勢に城を囲まれるが、城内に同居していた信長、信行の実母、土田御前を使った嘆願により和睦に持ち込んで命拾いに成功した。

●戦後
信長は、敵対に関わった信行の重臣林通勝柴田勝家の処分を敢えて行わなかった。
粛清による尾張国内の兵力低下を恐れて、仕方なく許したに違いない。
尾張国は、まだまだ政情不安定で、味方はひとりでも多く欲しいところであったろう。

この寛大な処置と信長の戦略・戦術に感銘を受けた柴田勝家は、信長への生涯の忠誠を誓った。
その他 この戦の直前は、美濃国の新国主斎藤義龍尾張国上四郡、さらには実弟を含む織田家中からも敵視された時期で、信長の生涯で最大の危機であったといえる。
それだけにこの戦の勝利は、非常に大きな意味を持つ。