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| 念願の美濃を手に入れた信長 | |
| 稲葉山城攻めいなばやまじょうぜめ | |
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| 西暦 | 1567年 |
| 和暦 | 永禄10年8月 |
| 関連する場所 | 美濃国 稲葉山城(後の岐阜城) 美濃国 北方城(安藤守就の居城) 美濃国 曽根城(稲葉一鉄の居城) 美濃国 大垣城(氏家ト全の居城) |
| 略図 | ![]() |
| 概要 | ●美濃国 1560年の桶狭間の戦で駿河国、遠江国の太守今川義元を討ち、尾張国を平定した織田信長の課題は隣の大国、美濃国攻略であった。 美濃国は、斎藤道三が国主だった頃、信長の織田家とは一時同盟関係にあったが、道三が長良川の戦で息子の斎藤義龍に討ち取られたこともあり、再び敵対関係にあった。 信長は西美濃において斎藤勢と小競り合いを繰り返しては敗北を繰り返すなど、攻略の糸口はなかなかつかめなかった。 1561年の4月に斎藤義龍が急死し、まだ14歳の斎藤龍興がそのあとを継いだ。 ●東美濃 1562年、織田信長は三河国の松平(徳川)家康と清洲同盟を結び、東の憂いを除くことに成功すると、美濃国により近い小牧山に築城(小牧山城)し居城を移し、領土問題から敵対していた犬山城の織田信清をけん制・圧迫するとともに、1564年には、美濃国東部の鵜沼城、猿喰城、堂洞城を次々と諜略などにより支配下に組み込んでいった。 ●稲葉山城のっとり 1564年、斎藤龍興の家臣で菩提山城主の竹中半兵衛が、稲葉山城をのっとるという珍事が起こる。 信長は竹中半兵衛に城を譲るよう迫るが、半兵衛は主君の龍興を諌めただけで、あっさりと城を返上してしまった。 ●墨俣城 1566年、信長は美濃国の墨俣に稲葉山城攻略のための拠点(墨俣城)を構築した。(木下秀吉(豊臣秀吉)が築城に成功) 同年信長は、木曽川を渡り、加賀見野(各務原?)に出兵したものの、美濃勢との対峙に終始するなど、膠着状態は破られなかった。 ●西美濃三人衆 1567年、好機が訪れた。 斎藤家の重臣で、西美濃三人衆である安藤守就(北方城主)、稲葉一鉄(曽根城主)、氏家ト全(大垣城主)が、信長に内通したのである。安藤守就は、前出の竹中半兵衛の舅でもあった。 三人衆の寝返りには、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が貢献した。 信長は早速小牧山城から出陣、稲葉山城の西の峰続きにある瑞龍寺山に布陣すると、8月2日に城下の井ノ口の町を焼き討ちし、稲葉山城を厳重に包囲した。 ●斎藤家の滅亡 美濃国の国人衆あっての斎藤家である。こうなっては道三自慢の堅城も文字通り裸城となってしまったわけで、8月15日、斎藤龍興は信長に降伏、城を明け渡し伊勢国長島へ落ちていった。事実上、斎藤家は滅亡したのである。 信長は念願の美濃国を手中にし、稲葉山城を岐阜城と改名し居城とした。 |
| その他 |