名門朝倉家のあっけない滅亡
一乗谷攻めいちじょうだにぜめ
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西暦 1573年
和暦 元亀元年8月
関連する場所  越前国 一乗谷館
GOOGLE MAP 越前国 六松賢松寺(現在の義景公園周辺)
GOOGLE MAP 近江国 大嶽城
GOOGLE MAP 近江国 月ヶ瀬城
略図
概要 ●小谷城
1570年の姉川の戦からの3年間、織田信長にとって京都への進路にあたる北近江の平定は避けて通れないものであったが、目障り極まりない浅井久政浅井長政が難攻不落の山城、小谷城に籠ったままであった。

●決意
1572年、信長はとうとう小谷城攻めを決意し、小谷城をにらむ位置に築き木下藤吉郎(豊臣秀吉)を入れていた横山城に、嫡男の織田信忠を含む5万の兵を従え入った。

さらに信長は、小谷城を眼下に望める虎後前山城(砦)に布陣、柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉(豊臣)らに先鋒を命じ、城下の焼き討ちや、支城である山本山城攻めを行い、浅井勢を威嚇した。

浅井方はいつも通り越前国朝倉義景へ援軍を要請、朝倉義景は朝倉景鏡を先鋒に、合計2万の軍勢で駆け付けると、小谷城の北方の大嶽城に布陣した。

●信玄の脅威
しかし、甲斐国武田信玄が動き出した(信玄の上洛戦)ことから、信長は一旦岐阜に戻らざるを得なくなった。
武田信玄三方ヶ原の戦徳川家康に勝利したあと、三河国を進み尾張国へ迫りつつあったが、信玄の死により進軍が停止したため、信長は危機を脱した。

●援軍崩壊
翌1573年、織田信長は、湖岸の山本山城の阿閉貞征が寝返ってきた機会をとらえ、再び小谷城攻めを開始、まずは月ヶ瀬城を攻め落とした。

一旦は越前国に帰っていた朝倉義景も再び2万の軍勢で浅井家の援軍に駆けつけ、木之本の田部山に布陣したが、大嶽城を守っていた味方の寝返りにあい苦戦となり、近郊の諸砦が織田方に攻略されてしまう。
これにより、朝倉と浅井の連絡は遮断されてしまい、朝倉義景越前国へ逃げ戻り居館のある一乗谷(一乗谷館)へ入るが、その時に従っていたのはわずか500の兵だったという。

織田勢の追撃をかわしきれなくなった義景は、重臣で叔父の朝倉景鏡の進言を受け、北部の大野まで引いて再起を図ることを決意し一乗谷を脱出するが、大野へ向かう途中、六松賢松寺にいるところを朝倉景鏡の兵に急襲された。
朝倉景鏡はすでに、滅亡は免れられない主家を裏切っていたのである。

朝倉義景は無念のまま自害。

その後、信長は義景の母高徳院や愛娼の小少将、嫡男の愛王丸を捕らえ殺害し、ここに朝倉家は滅亡した。

●城攻め
朝倉家を滅ぼした織田信長は返す刀で近江国へ戻り、小谷城浅井久政浅井長政父子を攻め滅ぼす。(小谷城の戦