豊家滅亡のための家康の言いがかり
方広寺鐘銘事件
ほうこうじしょうめいじけん
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西暦 1614年
和暦 慶長19年7月
略図
場所  摂津国 大坂城
 山城国 方広寺
概要 ●豊臣家の存在
江戸幕府を開いた徳川家康の最後の憂いは、徳川政権の完全な確立を阻む可能性のある、旧主豊臣家の存続でった。

家康は、豊臣家を一大名として存続させたいと願っていたと思われるが、豊臣家の主戦派は徳川の臣下となるなどもってのほかであると、家康からの再三の上洛要請にも従わなかった。

しかし、1611年3月、両者の対面が二条城において実現する。
豊臣家に恩顧のある加藤清正浅野幸長の仲介によるのだが、清正はこの年の8月に病死、幸長も2年後に38歳の若さで急死してしまう。
有力な旧臣を次々に失い、豊臣家は孤立していく。

●あふれる浪人
関ヶ原の戦で録を失った10万人以上と言われる浪人たちにとって、 天下の堅城大坂城に住む豊臣秀頼を担いで幕府に敵対し再起を図りたい、という思いは強かった。
これに応じた形で、豊臣家は大量の浪人を雇いいれ大坂城に入城させ戦備を急ぐ。

また豊臣家は、幕府への断り無しに朝廷に官位を奏請するなど、挑発行為ととも取れる行動を起こす。これが両者に決定的な溝を作ってしまった。

●言いがかり
1614年、家康は大坂城に入城した浪人たちの一掃と、豊臣家の転封を落としどころとした豊臣家攻めを決意、顧問僧の金地院崇伝や儒者の林羅山(道春)、京都所司代の板倉勝重、側近の本多正純らと諮って、豊臣家が再建した方広寺の釣鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康を分断し豊家を繁栄させようとの呪詛によるものだと決め付け、いいがかりをつけた。

豊臣家から、家老の片桐且元が弁明に駿府城に家康を訪れるが、家康はわざと直接対面を許さず、且元に面会した本多正純がヒントとして「大坂からの国替え」「秀頼の家康への伺候」「淀殿の人質」のいずれかが必要であろうと説く。
この時点で家康は、豊臣秀頼大坂城から出してしまえば、浪人たちも野望を捨て、一戦は避けられるかもしれない、と考えていたのかもしれない。

●内部分裂作戦
家康は、且元とは別に弁明に訪れた大蔵卿局大野治長の母=淀殿側近)と正栄尼(豊臣秀頼の乳母=渡辺糺の母=淀殿側近)には直接対面し、豊臣家を悪いようにはしないなどとにこやかに対面し大坂へ帰した。

片桐且元の持ち帰った話と大蔵卿局らが持ち帰った話があまりにも違うことから、淀殿大野治長らは、片桐且元が徳川に内通していると疑い出し、片桐且元は危険を感じ出奔する。結果的に家康の諮った内部分裂作戦にまんまとはまってしまったわけである。

徳川家とのパイプ役を務めてきた家老片桐且元を追い出す形となった豊臣家では主戦派が完全に台頭することになり、大坂冬の陣へ突入する。
考察 天下静謐のために、自分の死後必ず敵対関係となる豊臣家を滅ぼす決意をした家康の、老獪な駆け引きがあちこちに見られる。